「調査票との対話」
仁田 道夫(社会科学研究所)
私の本業は、労働関係の分野で社会調査を行って、日本社会が抱えるさまざまな問題の所在を明らかにしたり、その解決策を考えたりすることです(俗に労働調査屋などと呼ばれることあり)。社会調査といっても色々な方法がありますが、その一つは、普通アンケート調査と呼ばれている方法で、調査票を対象者に配布してデータを集め、その結果を数量化して分析します。この種の調査の目的は、あらかじめ選択肢に番号を振ってコード化しておき、それへの回答数をクロス表にしたり、様々な手法を使って計量的に分析したりすることにありますが、ときとして、自由記入欄を設けて、回答者の意見などを記述してもらうことがあります。それをアフター・コードして集計したりすることもありますが、そのままの記述として、いわば調査票を通した間接的インタビューとして利用する場合もあります。返送されてきた調査票を一枚一枚めくって、自由記入欄に書き込まれた肉筆の文字をながめていると、回答者の声や姿が、そこから立ち上がってくるような思いがすることがあります。
だいぶ前のことになりますが、東京都立労働研究所のプロジェクトで中小企業の仕事に関係する調査をしたことがあります。その調査票を整理していたところ、「なぜ、その仕事についたのか」を問う設問に対して、「本職だから」という回答がありました。油に汚れたその調査票からは、仕事の合間に、職場で一生懸命に調査票を理解して回答してくれている中年男性労働者(こういう人たちは、自分のことを職工と自称することが多いようです)の姿が彷彿としてきました。深夜、その調査票を手にしながら、しばし茫然とした記憶があります。
そのような経験から、ほかの研究者や調査機関が実施した調査報告を読むときも、自由記入欄を整理して記載してあるものを見つけると、それに目を通すことが多くなりました。ここに一冊の調査報告書があります。2000年9月に刊行された『進路決定をめぐる高校生の意識と行動:高卒「フリーター」増加の実態と背景』(日本労働研究機構調査研究報告書 No.138、執筆者は、小杉礼子、本田由紀ほか。なお、日本労働研究機構は、行政改革のなかで、現在独立行政法人労働政策研究・研修機構となっています)です。この調査は、首都圏の52の高校の6855人の高校三年生(平成12年3月卒業見込み)が回答したアンケート調査で、巻末に自由記入欄の記述が収録されています。それを読むと、実にいろいろな若者たちの生の声が聞こえてきます。「すべてを変えてほしい」「求人少ない!!なんなんだ??」「夢を捨てるか、親を捨てるか考えたが、夢を保留という形で終わった。もっと低所得者にもくらしやすい社会がほしい」などなど。自分の子どもとあまり変わらない世代の若者が、真剣に悩み、意見を表出していることに新鮮な驚きをおぼえたことを思い出します。
その言葉のはしばしから、はっきりとはわからないけれど浮かび上がってくることの一つは、母子世帯の子どもたちが、進路選択にあたって、大きなハンデを負っているらしいことです。高校卒の資格だけでは、就職先を探すこともむつかしくなっている状況の中で、大学に進学しない場合も、専門学校に通って職業上の能力を高めようと希望する高校生は大勢いますが、すべて私立である専門学校の経費は重く、進学をためらうケースも多いように見受けられます。また、仮に、なんとか進学できた場合も、かけたお金にみあう成果が得られるのだろうかと不安に思う気持ちを示している高校生もいたようです。
このように、この報告書を読む際に、母子世帯の抱える進路問題への関心を強くもったのは、やはり日本労働研究機構のプロジェクトで、平成12年より母子世帯に関する調査研究プロジェクトを始めていたからでしょう。私が主査で、岩手大学の藤原千沙、お茶の水女子大学の永瀬伸子両氏の協力をえて調査研究を行いました。その結果は、日本労働研究機構調査研究報告書2003年156号『母子世帯の母への就業支援に関する研究』(2003年8月刊)としてとりまとめられています。このときに既存の統計データの再分析も行いましたが、新規にアンケート調査も実施しました。住民基本台帳を用いて、60歳未満の母親と20歳未満の子どものみで構成されている5000世帯を抽出し、2733票を回収、うち該当調査票が1874(父親単身赴任世帯など非該当世帯を除く)集まりました。正確な回収率がわからない調査ですが、郵送調査だったのに、ほぼ50%程度の調査票が返ってきたことは驚きでした。普通の郵便調査で、30%も返ってくれば大成功というのが当節の常識です。もう一つの驚きは、最後のページに綿々と記述された悩みや要望でした。残念なことに、この自由記入欄の記述をすべて記録として掲載する余裕はなかったので、この報告書(それ自体、717ページもある大変分厚な報告書です)ではごく一部が紹介されるにとどまりました。
この調査報告は、母子世帯の就労に関するものとしては、画期的なものだと考えているので、できるだけ大勢の人に読んでもらいたいと希望しています。そこに私が書いた序論の文章の結論部分を引用すると、次のようです。
「従来、わが国では、離婚率や未婚の母の数が少なく、母子世帯の数が比較的少数にとどまっていた。経済環境が比較的良好で、児童扶養手当制度のように就業促進的な社会保障制度が機能してきた。そして、母子世帯の母の側も、子どもにできるだけ高い教育を与え(中略)、それによって次の世代にはゆとりある暮らしができるように懸命に働き、頑張ってきた。家族もそれを支援してきた。その結果として母子世帯の生活がなんとか維持され、また高い就業率が実現してきた。このようなわが国の母子世帯の行動様式は、先年注目を集めた明治維新期長岡藩における「米百俵」の故事を思い起こさせるものがある。 しかし、状況が大きく変わり、母子世帯数は増加し、安定的な就業機会を確保することが困難になってきている。対応を誤ると、この問題は、貧困の再生産につながりかねず、重大な社会問題を発生させかねない。」(上記報告書20ページ)
上に書いたように、従来であれば、高校卒業までなんとか頑張れば息がつけるという見通しがたたなくなったことは、もう一つの重要な状況変化です。母子世帯の母子が希望をつないできた高校教育が、その役目を果たせなくなっているのだとすれば、その影響は深刻です。「希望がない」というかたちで表明される現代日本の社会問題の一部は、そうしたかたちで追いつめられている層に集中してあらわれていることを考えておくべきでしょう。
仁田 道夫 (にった みちお) 社会科学研究所教授 専門は労使関係・労務管理の調査研究
紹介ページ:http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/mystaff/nitta.html
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