社会の問題を考えようとするとき、これまで希望は前提でした。希望、それはすなわち欲望や目的となり、その欲望や目的を所与として、消費、進学、就業、結婚、出産などが実行されると、社会科学では考えてきました。しかし現在、その前提自体が揺らいでいます。
進歩、発展、成長、近代化。そんな言葉を信じられる時代がありました。個人が何を欲し、何を目的として生き、社会がどこに向かっているかについて、はっきりと先行きが見えているかに思える、そんな時代でした。そのころ、学問を含む様々な社会的言説もまた、「希望はいつでも存在する」ことを暗に想定していました。しかし、今や、そのような想定が失われつつあるのです。 かつて炭坑夫たちは、炭坑に入るとき、かならずカナリヤをつれていったといいます。坑内に有毒ガスが漏れ出したとき、人間より早く、カナリヤはその危険を察知したからだというのです。もしかしたら若者たちは、現代のカナリヤなのかもしれません。無気力、学力低下、低年齢化する犯罪などといった行動も、希望という空気が薄くなりつつある現代への若者たちの反応を、大人の立場から表現したものかもしれません。 「失われた10年」と呼ばれた時代が過ぎ、さらに年月がたった今日でも、「この国を覆う閉塞感」という言葉をしばしば耳にします。それでは、その閉塞感の正体とはいったい何なのでしょうか。その感覚は、単に景気が上向けば、自ずと消え去る類のものであるとは、到底思えません。なぜなら、現代の社会には希望の喪失という闇が深く潜んでいて、それこそが閉塞感の根源にあることに、みんな気づいているからです。 激動する就業環境のなか、働く人の多くが「自分は何のために働くのか」にとまどい、失業者の多くは「希望する仕事がない」といいます。ひきこもりやニートには、やりたいことがみつからない限り、働けないという感覚があります。暮らし全般をみても、成熟した社会のなか、自分が本当には何を消費したいのかが、わからないという人が少なくありません。しかしながら、健康についても、医療技術の発達に加え、本人の持つ希望のあり方が、改善状況を左右します。技術革新が切り開く社会の未来も、進歩の先に個人がどんな希望を見るかによって、その姿は異なるでしょう。高齢社会において多くの人が模索しているのは、単に人生を長らえることばかりではなく、一人ひとりの人生をいかに生きるかという、長期的かつ実践的な行動指針ともいうべき、真の意味での希望です。 希望は、各個人にとっての過去と未来とをつなぐ展望を与えます。また希望は、個人と個人との関係を規定します。その希望が、今まさに問題となっているのです。 では、仕事や暮らしのなかの希望は、いったいどのように形成され、そして失われるのでしょうか。そんな希望の変動は、社会の動きとどのように関係しているのでしょうか。希望学とは、社会全般にとっての根本的な課題としての希望について、その社会的意味を明らかにすることを目的に、従来の学問的枠組みを超えるかたちで、東京大学社会科学研究所を基盤として2005年度より始められた新しい学問です。 他に類をみない希望学という新しい社会科学が目指すのは、次の三つの普遍的な問いに対する答えの追求です。一つは「社会において個人が形成する希望とはそもそも何なのか」という問いです。希望という日常的に用いられる言葉が、社会を語る上でも重要な概念であることは、多くが認めるところでしょう。にもかかわらず、希望の精緻な内容は必ずしも明確にされてきませんでした。あるいは、個々の分野ごとに理解が異なりました。これに対し、希望学は、希望について誰もが語れるための、共通言語の構築を目指します。 第二の問いは「社会が個人の持つ希望にどのような影響を及ぼすか」です。日本社会は、第二次世界大戦後の壊滅的状況から驚異的な経済成長を実現し、その後幾度かの停滞や危機を経験しながら、世界的には依然として高い生活水準を続けています。そのなかで日本人の希望観・未来観は大きく変容してきました。日本社会は、社会の変動と希望の歴史を持っているのです。社会科学研究所には、日本人の意識や行動に関して豊富なデータを蓄積しています。その財産と新たに実施する希望に関する調査研究を通じて、社会の変動が個々人の希望形成のあり方に与える影響を明らかにします。 第三の問いは「個人の形成する希望が社会状況をどのように規定するのか」です。希望は社会によって影響されるばかりでなく、希望それ自体が社会を変えていく可能性を秘めています。社会状況の改善を目指すとしても、その改善の試みが個々人の将来に対する希望をどのように変え、その結果としてどのような集団行動へとつながるかについての理解が不可欠です。希望学は、思想・制度研究、経済・歴史分析、社会調査など、社会科学研究所が保有する学際的かつ総合的な研究実績を活かし、希望が社会に与える影響と、希望を通じて社会を改善する方策を考えます。 人はどのようにして希望を持ち、そして失うのか。希望は社会とどのような関わりを持つのか。希望学は、社会のなかでの希望の意味とありかについて、一人ひとりが探求するための科学的プロジェクトです。私たちは社会科学者として、事実の積み重ねを通じて、希望について考えていきます。 東京大学社会科学研究所 |