ギリシア神話「パンドラの箱」から
河野 仙一(早稲田大学)
パンドラが箱を開けてたくさんの邪悪なものが飛び出したあと、たった一つ、箱に残ったものがある。それは「希望」。
この物語は、社会は「災厄」にあふれているけれど人類の側には「希望」が残ったと好意的に解釈されることが多い。
だが、おかしくはないだろうか。「災厄」が箱から出ることで世に在らしめられたのなら、「希望」が箱に残ったままの状態でなぜ人間の側にそれがあると言えるのだろう。ふとそんなことを考えた。常道の解釈にぼくが疑問を抱いたのは、現代の社会状況と無縁ではないと思う。 古典はえてして論理的矛盾や誤謬に満ちているものだ。
だが矛盾なり誤謬なりを含めてなお、その物語は示唆に富み普遍性を持つ。
そして解釈は読み手の側に完全に委ねられる。
さて、悠久ともいえる時の篩いにかけられて今日も残る「パンドラの箱」を改めて読み直してみる。「現代」に生きるぼくたちの眼にはどのように映るのだろうか。
「パンドラの物語ほどよく知られている神話はない。が、これほどまでに完全に誤解されてきた神話もおそらく他にはあるまい。パンドラは最初の女性であり、美しき厄いである。彼女は禁断の匣を開ける。すると人間が背負うことになるありとある禍悪があらわれて出てきて、最後に希望だけが残る。パンドラの匣は人口に膾炙しているものの、パンドラは匣など持っていなかっただけに、その事実は注目に値する」(Panofsky2001:3)
「完全に誤解された」神話が、今日流通しているパンドラの物語と言ってもよいだろう。まずその誤解の部分を検証してみよう。
そもそもパンドラの開いたものは「箱」ではなかった。それは「甕」であり(Hesiod1986;Kirk 1980)、その大きさも首にぶら下げられるもの(Bellingham1993:48)から簡単に持ち運びできないような「大甕」(Panofsky2001:5)とするものまで諸説さまざまある。どうやら「箱」はエラスムスによる誤訳(Panofsky2001:12-16)がそのまま流通したものであるらしい。広辞苑を引いてみると、「パンドラの箱」という項目はあるが「甕」や「壷」はない。パンドラが「開けた」というイメージが、必ずしも「蓋」を伴わずまた現在では姿を見ることが比較的少ない「甕」よりも、「箱」のほうに強いからではないだろうか。ほかにもパンドラではなくその夫エピメテウスが開けたとする説(Bellingham1993:48)や、箱の中にあったのは「悪」ではなく「善」で、開いたことにより人間に与えるはずだったそれが飛んでいってしまった、などという説(Matrin1997:169)もある。
「希望」の性格づけもさまざまだ。「あわてて蓋を閉めた」から残ったのか、「ぐずぐずして思い切りの悪い性質がら」(呉1969:39)残ったのか。「希望は劇薬だから人間にもろに感じられないよう」(Kohlmeier1999:135)配慮されたと考える場合もあれば、「希望」は偽りの「悪」で、「人間たちはこの嘘に惑わされて、自殺もせずに生きながらえている」(Graves1962:127)ともされている。ニーチェに至っては「希望は本当は禍の中でも最悪のものである、希望は人間の苦しみを長引かせるのであるから」(Nietzsche1994:101)と反転をなした。
管見の及ぶ限りでは、ヘシオドスの手による物語が最古のものである。パンドラが「甕」を開けたのも「希望」だけが残ったのも、すべてゼウスの意図によるものであり、何者もその手の内から逃れられない。この物語の主眼はあくまで大神ゼウスを讃えることに置かれていた。
現代に伝わるパンドラの物語とはずいぶん違う。もし『仕事と日』の記述のみが正しい物語であるとするのなら、今日の「箱」もその希望の性格づけも過ち、ということになる。けれど時代が加えてきた潤色を一概に「過ち」と決めつけることはしたくない。それは、人々の意識を反映したものであるのだから。時代の色とでも言うべきものが、何らかの形で彩られているはずだから。
こう考えてぼくは、「誤解せる神話」のままの「パンドラの箱」を繙こうと思う。神話とは「世のあらまし」を語ったものだ。現代においてもいまだ「希望」が残ったままとされている「パンドラの箱」に、ぼくたちはどのような意味を汲み取ることができるだろうか。
冒頭で述べた好意的な解釈を成立させるために、「パンドラ」が人類を、「箱」が個人の心を象徴していると考えてみる。そうすれば、「災厄」がはびこる世の中でも人間には「希望」がある、と読むことができるだろう。
けれどこのようにパンドラの物語から「救い」を読みとることは、今ではいささか楽観的に過ぎるかもしれない。
現代の世に「災厄」はまさしく多く、あらゆる問題は山積みだ。
はて、「希望」はどこに。
人知れず箱の中に残ったままなのだろうか。
今、「希望」は世の中にない。なぜなら一つだけ底に残したまま、パンドラは箱を閉じてしまったのだから。そもそも箱は開けてはいけないものだった。いったん開かれた以上、人間が生きていくうえで多くの災いに遭うのは仕方がない。だがせめて「希望」も外に出してから、パンドラは蓋を閉じるべきではなかったのか。
「パンドラの箱」はアンチロマンであり、絶望の物語だ。
紀元前に編まれた古典に「現代の文脈」はこのような読みを強いる。成り立ちからして「希望」は社会に存在しないものであるのだ、と。
暗鬱で、救いのない物語。この解釈はある点においては読む者を納得させ、古典の先見性の高さを認識させるかもしれない。
でも、ぼくたちは、そこで諦める?
2005年7月15日の「希望学宣言!」の盛り上がりに対して、橘川先生は驚きを表していた。「絶望が深いほど、希望への期待は高まる」、その通りかもしれない。期待と好奇心と、すがりつくような気持ちでもって、少なくともぼくはあの場にいた。
このような状況下で「希望学」という学問を始めるということは、いわば「パンドラの箱」をもう一度開く行為ではないのだろうか。最近、ぼくはそう思いながら「希望学」の動向を見つめている。
「希望学宣言!」の日のなかで、玄田先生の「我々は本郷から出てきました」という言葉が強く印象に残っている。研究者たちだけでなく、さまざまな人を巻き込んで、「希望について考えたい」という強い意志を感じた。その理念に「希望」の光が見えたから、ぼくはあのときあの場にいて、今、こうやって文章を紡いでいる。
願わくは古典が時代によって書き換わってきたように、遠くない未来でこの物語を大胆に変えてほしい。たとえばこんな風に。
「人間は苦労して、パンドラの箱をもう一度開けることに成功した。長く留まっていた「希望」は徐々に溢れ、光を撒き散らしながら瞬く間に世を駆け巡る。神話の時代に神に奪われた「希望」は、人間の手によって世界に在らしめられることとなった」
この「結末」は今のところまったくの戯言にすぎないが、原点から遠く離れた「美しい誤解」としての物語も存在していいじゃないか。そしてこんな「パンドラの箱」の物語がリアルなものとして受け入れられる世の中が来たときこそ、「希望学」はその役割を終えるはずだ。
< 参考文献 >
- 呉茂一『ギリシア神話』(新潮社、1969年)
- Bellingham, David『ギリシア神話』(阿部素子訳、PARCO出版、1993年)(原書名:An introduction to Greek mythology.)
- Graves, Robert『ギリシア神話』上(高杉一郎訳、紀伊国屋書店、1962年)(原書名:The Greek myths.)
- Hesiod『仕事と日』(松平千秋訳、岩波書店、1986年)
- Kirk, Geoffrey Stephen『ギリシア神話の本質』(辻村誠三訳、法政大学出版局、1980年)(原書名:The nature of Greek myths.)
- Kohlmeier, Michael『あなたが知らなかったギリシア神話』(池田香代子訳、河出書房、1999年)(原書名:Sagen des klassischen Altertums.)
- Nietzsche, Friedrich Wilhelm『人間的、あまりに人間的』(池永健一訳、筑摩書房、1994年)(原書名:Menschliches, Allzumenschliches.)
- Panofsky, Dora&Erwin『パンドラの匣: 変貌する一神話的象徴をめぐって』(尾関彰宏・阿部成樹・菅野晶訳、法政大学出版局、2001年)(原書名:Pandora's box.)
- Rene Martin『ギリシア・ローマ神話文化事典』(松村一男訳、原書房、1997年)(原書名:Dictionnaire culturel de la mythologie greco-romaine.)
河野仙一 (こうのせんいち)
早稲田大学 第一文学部
1983年、福島生まれ。2002年早稲田大学第一文学部入学。文学を志し上京するも、大学でより広い人文科学、社会科学の面白さに目覚める。学部4年間で読んだ本の割合は、6:4で文学の方が少ないくらいだろうか。 卒業論文で、「現実」という言葉の対義語から時代の基調色を捉えるという見田宗介のアイディア(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年)を借りて「現代」の考察を試みたが、最終的に目指していた「希望」の構築をするまでには(当然のことながら、と言うべきか)力及ばず。 元高校球児、全世界空手道連盟新極真会会員。趣味、旅、映画、音楽、写真。「希望学宣言!」に参加した日から、煙草を「HOPE」に換えた。 「希望はあるか」と言われれば「個人的にはある」けれど、現時点で「語れるか」と聞かれたら安易に口は開けない。それでも将来は語れるようにありたいと考えながら、今の日々を過ごしている。
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