『希望学』への感想からこのコーナーでは、希望学プロジェクトの成果である『希望学』(中公新書ラクレ)について、みなさまから寄せられた感想を紹介していきます。
本書をお読みになった方は、ぜひ感想や質問などお寄せください。 E-mail:hope@iss.u-tokyo.ac.jp 「ファイトすることについて」「小さい頃に希望する職業を具体的に持っていた人のほうが、持っていなかった人に比べて、やりがいのある仕事に就いている」(p66)。やりがいのある仕事に就きたいと考えている私にとって、この事実は非常に興味を惹かれるものだった。 この事実を知り、私は自分の小中学校時代を振り返った。 私は小学生の頃、野球選手になりたいと思っていた。地元の野球リーグに入り、来る日も来る日も練習を繰り返した。中学生になっても、野球選手になるんだという希望を持ち続け、私は迷わず野球部に入る。そして、小学生の時と同じように、毎日毎日練習し続けた。 しかし、ある時、自分は野球選手には向いていないのではないか、と考えるようになった。練習してもなかなか上手くならない。自分より後に始めた人に追い越される。そんな中で、野球選手という希望はだんだん消えていった。そして、別のものへと希望は変わっていったのである。 このように小中学校時代を振り返り、私は自分自身を再発見した。希望を持ち、それに向かってファイトすることで自分の能力に気づき、だんだん自分の適性がわかってくる。小学校、中学校、高校、大学と、無意識のうちにそうした作業を繰り返している自分に気がついたのだ。 それと同時に、ふと、こんなことを考えた。もし希望に向かってファイトしていなかったらどうなっていたのだろう。希望に対してなんとなく向き合い、具体的な行動は特に何もしなかったらどうなっていたのだろう。私は、自分の適性に気付かなかったのではないか、と思った。 データからは、小中学校時代に希望する職業があった人ほどやりがいのある仕事に就いている。では、小中学校時代に希望する職業があった人の中で、いったいどれだけの人がそれに向かってファイトしていたのだろう。ファイトしてもしなくてもやりがいのある仕事に就ける確率は変わらないのだろうか。 第2章の後半で、宮田祐子さんが大学生に対して、次のようにアドバイスされていることが紹介された。「計画を作ってみよう。希望を持つことから始めてみよう。将来計画通りの人生を歩むことは不可能だとしても、幸せな人生を送ることは可能なのだから。」(p77)。感激した。希望学は社会に役立つ大きな可能性を秘めているのではないかと思った。 しかし、もしファイトしていた人ほどやりがいのある仕事に就いていることがわかれば、「希望は持つことだけじゃなくて、それに対してファイトすることが大事なんだよ」と言えると思う。 希望についてはまだまだわからないことが多く、これからどのような事実が明らかになっていくか非常に楽しみだ。『希望学』はその第一歩を踏み出されたという意味で大変貴重だと思う。 松本武志 ■ 「命と希望」希望のイメージは、清らかな水と明るい太陽。 中公新書ラクレ『希望学』の「はじめに」にはそう記述されています。 「生命現場でのケア」に関する勉強会でのことです。 講師は、終末期ケアに携わっている産婦人科医、受講生の大半は助産師でした。 そこで語られていた内容は「希望学」そのものでした。 希望学を読んだばかりだった私は、思わぬ偶然に驚きました。 講義内容は希望というのは一人の中で完結するものではなく、人間関係の中で作られていくんだなぁ、という印象を強く感じるものでした。 挫折経験にふたをしてはいけない、ある程度の距離があるからできる支援がある、など全部、希望学の話と通じる内容でした。 命の現場に携わる医師や助産師、看護師などの支援者は、死産や流産など「死を迎えるまでの時間が短い命を身体に宿していた人」や「目前に迫る自らの死期を知りつつ生きていく人」に接する事を避けることができません。 避けられない「死」と向き合い、苦しんでいる人を目の前にした時、その現実とどう対峙し、どんなケアをしていけばいいのか。 その話題の中でこんなお話がありました。 憧れの職業に就き初めて知った、理想とのギャップに「これがやりたかったの?」「これでいいの?」と悩み、仕事の意義を見出せなくなる苦しい時期に出会うことを「スピリチュアルクライシス」と呼ぶらしいのですが、産婦人科での仕事に携わる人は「新しい命の誕生をサポートしたい」という想いで働いているだけに、死産や流産のケアは本当に辛く悲しい体験であり、誰しもが必ず、仕事に対する無力感を味わう時期を迎えるそうなのです。 しかし、そんな辛い現実に戸惑いながらもわずかに希望を持ちながら続けていく事によって現実世界に沿った理想的なケアの在り方を知り、変わっていくのだそうです。 つまり、死産や流産を「なかったこと」「早く忘れるべきこと」としてケアするのではなく、どんな形であれ命の誕生は喜びであり、短いながらも1つの人生が確かに有ったことやそれに立ち会えたこと、そして、家族の一員として過ごした時期があったことを母親や家族が受け止められるような体験となるように支援していく道があることに気づいていく人がいる、と。 当事者と支援者の双方がその辛い出来事を挫折として捉えるのではなく、「その体験からしか得られない何かを得る」機会にしていくことができるのだ、というのです。 排除されてきた体験にふたをせず、それに関わりあった人同士が体験を共有・発信していく中で社会性が生まれて転換され、新しいものとして生産されていくこと。 これは「希望の修正体験」そのものだ、と思いました。 そして、希望は挫折や絶望という闇の中で自分の居場所や行く先を見失った不安な心をそっと照らす、ほんのりと優しい月の光のようだと思いました。 「大きな苦しみを受けた人は恨むようになるか優しくなるかのどちらかである」 その講師の方は、続けて言いました。 苦しい出来事に出会った時、心にふたをしないでその苦しさをうまく出せたり、人に支えられたりすると、人は優しくなれる。 心の傷は治ったり、なくなったりするのではなく受容できていくものなのだ。 医療現場では、「どんな命でも受け入れること」が前提なのではなくとにかく正常に産ませようとしてしまう傾向がある。もちろん、悪気はなく。 しかし医療の世界でいう「正常」とは単に「平均」のことでしかない。生命を平均で判断していいのだろうか。 大切なのは、あるべき姿を押し付けることではなく、死や異常を受け入れていくこと。挫折や絶望経験にふたをしないこと。それを通してしか学べないことを共に学ぶこと。 本人も支援者側もそこでの体験と人間関係を通して成長し変化していく。 死産や流産についてだけではなく、正常産についての関わり方や意識までもが挫折経験をしなかった時よりも、よい方向に変わるのだ。 だから、挫折にふたをせず、その苦しさを伝えあえる人間関係を大切にし寄り添っていくことが、支援者のあるべき姿なのだ。 そう主張していました。 勉強会の中で先生は、受講生にこんな風にも問いかけていました。 「筋ジストロフィーで、自分は次の季節が来る時期まで生きられないと知った人にどう言葉をかけますか?」 誰も答えませんでした。 すると、「そんな人が書いた詩です」といって下記の詩を紹介してくれました。 僕は冬に生きるから、春の浜辺の夢は見ない。 ふと、ダイエーの中内さんの 「希望を持たないことで生き残った」という話(「希望学」文中)を思い出しました。 しかし、ある青年は 希望を持つ事を選んだそうです。 そして同じ病気で苦しむ人を支えるために本を書いたそうです。 「もし僕に明日があったなら」という出版社からの提案を却下し「たとえぼくに明日がなくとも」というタイトルで本を出版したそうなのです。(石川正一『たとえ僕に明日がなくとも』立風書房) 「挫折や絶望を転換できれば、やがてそれは新たな力になっていくのだ」 でもそれは、周囲の力があるからできることなんだと。 そして。目の前の一人を支えることはやがて連鎖し、多くの人を支えていくことにつながるのだ、と。 希望というのは、人の心をつないでいくものなのですね。 闇から光へ、 そういえば、 宮田佑子 ■ 「自分について考える」本書の第4章「恋愛と結婚の希望学」を読んでいて、「子どもの頃、家族の愛情を特に感じたことがない」で「友人が少ない」で、 「現在結婚していない」私……きゃー、あてはまる! と結婚に対する欲求が現在あるわけではないのに(断念しているわけでもないですが)、なんだかあわててしまいました。 読み進めるにつれ、『希望学』はこのように、自分について考えさせられるだけではなく、他の人の「希望」の捉え方について知りたいと思わせる本だと感じました。「希望」について語る時に、みなさんはどの程度の「実現性」があるものを「希望」として述べているのでしょう??たとえば、私が今から、「アメリカ大統領になりたい」と思うのと、「中央公論新社の社員になりたい」というのでは、実現性に格差があるのではないでしょうか。前者は「夢(=非現実的)」で 後者は「目標(=努力次第)」、と違う捉え方ができると思います。そしてそうした違いを考慮したコミュニケーションは、そうしないものよりも、より円滑で面白いものになるのではないか、と考えさせられました。 つまり、希望について考えるということは、個々人が自分の人生について、あるいは人とのつながりについて考えることにつながると思います。そういう意味で、マスとして希望はもちろん、人生について語ることや考えることが難しくなってきている現代社会に、希望学は必要な学問だと思いました。 岩垣良子 ■ 「スキルの問題」去年は体を壊して入院したり、大学院の試験を失敗したり、その他プライベートなことでさえ散々でした。挫折にまみれた一年でした。でも、まだ「希望」を捨てていません。 カラ元気かもしれないし、強がりかもしれないのだけれど、私はなぜ「希望」がある、と自称できるのだろうか。 「希望学セミナーの議論のなかでは、希望というものが、必ずしも個人の性格や欲求、感情というだけでなく、むしろ技術や能力によって身につけることができるという一種の技能論としてとらえ直す重要性が浮かび上がっている」(71ページ) 「性格」というよりスキルの問題だとしたら。 面白い、と思いました。 するとどのようなスキルを私は身につけてきたのだろうか。 自問自答すれど、まだ言葉にはなりません。 ですがあの一節に触れて「性格」より「技術」なのかもしれない、と直観的に思ったのでした。自身を振り返って、「ウィークタイズ」が本当に多いことも事実です。 最もこれは性格が生むものかもしれません。 うーん、先天的な「性格」と、後天的な「技能」、どちらがより深く「希望」に関係するのでしょうね。相関的である、といってしまえばそれまでですが、今まで考えてもみなかった「技能論」という視点が、私には印象的でした。 「発進」、ほんとうにおもしろく読ませていただきました。 ですが随時「希望学」HPを見るなり、宮崎さんとの対談も「中央公論」誌上で既読であった私でしたので、少し物足りなく感じたのは事実です。 初めて「希望学」に触れる方々にとっては、十分に興味を引く内容であったのではないだろうか、と思います。 「発進」した次、さぁこれからどうなるのか、ますます期待は膨らみました。そんな一冊でした。 河野仙一 ■ 「他者性とは」『希望学』読ませていただきました。 私は、この3月に大学を卒業して、今は公務員として働いています。 私は、常日頃、「人は出会いによって影響を受け、人生を形成していく」という思いを抱いていました。 それは、ほかならぬ私が、そのようにして今の自分を創っているということを感じているからです。本の中で、「専門職に就きたいのに、コンビニ店員をしている」という現実と 将来のギャップの話がありましたが、それを考えると、市の外郭団体で働いたり、専門職としてやっていけるように研究所でバイトをしたりと、自分で言うのも なんですが、私は地に足がついたキャリア選択をしていたのだと思います。 『希望学』には、「他者性」ということが重視されていましたが、そのようなキャリア選択を促してくれたのは、ほかならぬ尊敬できる他者との出会いでした。尊敬できる他者を通じて「何事もやりたいことはやってみる」という信念を得たから そのように行動できたのだと思います。 自分がやりたいこと(希望)を見つけられたのは「出会い」のおかげでした。 就職先での配属には失望していたのですが、そこで同じ葛藤にあっている人、同じ志を持っている人に出会い、語り合うことで、私は「希望」を取り戻しつつあるところです。 『希望学』の結びにも記載されていましたが、他者との出会いが希望そのものなのかもしれないとも思っています。 「希望」は私にとってずっと中心的な概念でした。 「希望を科学する」試みは、そんな私にとってはとても興味を惹かれる内容でした。 匿名 ■ 「子どもに期待するとは」「一生懸命やろう」 希望学プロジェクトで「希望」を社会科学の立場から分析していることに、以前から興味を持っていたので、「希望学」はすぐに買って読んでみた。 調査の結果の中では、 「家族からの期待」とは、何なのか? では、本当の意味で「子どもに期待する」とはどういうことか?私は以下のようなことだと思っている。
保護者からの、大きく、暖かく、子どもを包み込むような、かつ子どもを一人の人間として見た上での、期待。 山下恵利奈 |