第3回 岸洋子 「希望という名のあなたをたずねて 遠い国へとまた汽車にのる」
1970年、日本レコード大賞歌唱賞は、岸洋子の『希望』であった。岸洋子の代表作とも言うべきこの歌は、実は彼女のために作られたものではなく、倍賞千恵子のために作られたミュージカルの曲だった。しかもこの歌は、岸洋子のみならず、シャデラックス、フォーセインツという男性コーラスグループとの競作であった。『希望』は、1968年岸がタクシーの中でラジオから流れてくるこの歌にひきつけられ、曲の題名と資料を集めて、歌わせてもらうようお願いし、歌ったものだったのだ。
岸洋子は、1935年3月27日山形県酒田市八軒町(現・新井田町)に7人兄弟の6番目として生まれる。幼い頃から歌が好きな上に、身長が高かったため、「宝塚に進んだら」と勧められたほどだった。当時、酒田市には元宝塚歌劇団で声楽教授として活躍していた東京芸大出身の加藤千恵が「酒田ボーカルスクール」を開設していた。
「遠い記憶をたどると、私が初めて音楽にかかわったのが小学校5年の時。姉に連れられて行った浄福寺のボーカルスタジオで、加藤千恵先生の手ほどきを受けた」
中学校、高校での岸は、ソプラノ、アルトのどちらでもこなせた上に、伴奏まで出来た為、クラブ活動で幅広く活躍した。そして、当然の成り行きのように、加藤から東京芸大受験を勧められ、4次まである試験をストレートで突破し、現役で声楽科に合格する。芸大入学後、ドイツ歌曲、フランス歌曲、フォーレ作品などを勉強し、オペラへの出演も頻繁になっていった。大学4年の時、とうとう大学院への最終選考に合格し、さらに声楽への道を極めることになった。この頃までの岸の人生は順風満帆であったと言えよう。ドイツ留学や二期会への入会という話も見え隠れしていた。幼い頃から歌うことが「至上の喜び」だった岸にとって、夢に描いていた通りの歩みだっただろう。しかし、岸洋子22歳の秋、思いがけない身体の不調に苦しめられることになる。
「立ちくらみ・だるさ・微熱・食欲不振などの症状が続き、ドイツ留学の話も、二期会の仕事も、高校・中学の先生の仕事も、病院での『心臓神経症だから、歌はしばらくやめた方がいい』の検査結果で絶望的になりました。ショックのため眠れない日々が続き、心身ともに疲れ果ててしまいました」
一年間の療養の後、岸は自分の部屋で幅広い年齢層を対象に歌やピアノの個人レッスンを始める。
「歌とかかわりあいを持って25年になりました。『歌以外にどんな仕事をやってみたいですか』とよく聞かれます。草花を育てる仕事でしょうか。子供の好きな私は、幼稚園の先生にも一寸興味があります。あれもやってみたい、これもやってみたい。でも……歌っている瞬間(とき)が一番正直で、素直な私です」
晩年こう語っている岸は、歌やピアノの個人レッスンを続けていたこの時期、教師としての笑顔の下に、「歌が歌いたい」という切望と、次々と大きな舞台へ羽ばたいていく同期の仲間への羨望を隠していたのかもしれない。そんなある日、岸の人生を大きく変える出会いが起こる。それは、芸大時代の友人が持ってきた1枚のLPレコードに収められていたシャンソン歌手・エディット・ピアフとの出会いである。「なんの小細工もなく人生をうたい上げるピアフに感動した」岸は、以来ピアフのレコードを買いあさり、聴き続けた。「聴くだけでは物足りなくなって」譜面を作り、辞書を引きながら歌い、『愛の讃歌』『ばら色の人生』『パダンパダン』などレパートリーも増えていった。
「自宅でもっぱら友人の伴奏でうたっていたが、やがて思い切って外に出て人の前でうたってみたいと思うようになる。まずNHKで、素人のオーディションを受けてみた。『何度もうたいこんでいけば味のある歌になるよ。』との審査委員長の優しい言葉に励まされる。その後、生本番のNHK『花の星座』から声がかかって、『パダンパダン』をうたう好機に恵まれ、いよいよシャンソン歌手として『銀巴里』への出演が実現した」
『銀巴里』とは、銀座7丁目の地下にあったシャンソン喫茶である。『銀巴里』は、淡谷のり子、美輪明宏(当時・丸山明宏)、金子由香利などの名だたるシャンソン歌手がステージを飾っていた、日本のシャンソンの殿堂であった。岸のシャンソンを初めて聴いた時の感動を、ジャーナリスト・大沼正はこう語っている。
「まもなくすばらしい歌手が現れた。長身の冷たい美しさをたたえた岸洋子、薄暗いカウンターにもたれて、岸はぼくらの酔客の無遠慮な要望に応じて歌いだした。シャンソン『愛の讃歌』、脳天を雷でたたかれたとはこのことだろうか。ぼくらは何曲もせがみ、そして感動に身体がふるえた。(中略)穴ぐらのようなバーで唄ってくれた岸洋子、それは一種の芸術少女の面影だった」
岸は、ともかくも歌へと、歌うことへと復活した。しかし、その復活はけっして順調なものではなかった。シャンソンを地下の喫茶店で歌っていることを芸大の仲間や教授に報告すると、こぞって「堕落を責められ」たという。燦燦と陽の当たる道をまっすぐに歩いてきた岸が「地下の喫茶店」で歌うことによって、今までその身に受けていた賞賛やまっすぐな励ましが、少し捻じ曲がった憂慮や疑問へと変化していったことは想像に難くない。岸はこの時期のことをほとんど口にしない。オペラとシャンソン、劇場と地下の喫茶店。 「歌こそが人生において至上の喜び」と語る岸が、病から立ち直り、歌へと復活し、ようやく歌える場所をみつけ「嬉しかった」はずのこの時期、岸は歌うこと以外は沈黙を通したのだ。
1960年、岸洋子25歳の秋、東京イイノホールで始めてのリサイタルを開く。翌年、キングレコードと専属契約し、プロの歌手としてようやく第一歩を記す。同じ頃岸は、1歳年下のテレビ局員と結婚する。両親に結婚を反対され、ピアノ1台だけを持ち出して家出し、結婚に踏み切ったという。しかし、1964年『夜明けのうた』がヒットし、レコード大賞歌唱賞を受けた頃から、結婚生活に軋みが生じ始める。
「歌が売れる前と同じ人なのに、彼がどんどん小さく見えてくる」
やがて、岸は結婚を解消する。
その後の岸は、渡仏、『恋心』のヒット、イタリアのサンレモ音楽祭に出場し『今宵あなたが聞く歌は』で入賞、日本において「岸洋子リサイタル」で芸術祭優秀賞受賞、など国を超え、幅広い活躍をしていく。そして、『希望』という歌と出会う。
「希望という名の あなたをたずねて
遠い国へと また汽車にのる
あなたは昔の あたしの思い出
ふるさとの夢 はじめての恋
けれどあたしが大人になった日に
黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
いつかあなたに また逢うまでは
あたしの旅は 終わりのない旅」
「ふるさと」にいた青春時代の岸が夢を見、恋焦がれていた対象はオペラの「プリマドンナ」であった。けれど岸が成ったのはシャンソン歌手であった。
「希望という名の あなたをたずねて
今日もあてなく また汽車にのる
あれからあたしは ただ一人きり
明日はどんな町につくやら
あなたのうわさも 時折り聞くけど
見知らぬ誰かに すれちがうだけ
いつもあなたの 名を呼びながら
あたしの旅は 返事のない旅」
岸洋子の名前が全国に知られるきっかけとなった『夜明けのうた』も、実は岸のために作られた歌ではない。ある音楽会に参加した際、シャンソン、カンツオーネが主なレパートリーだった岸に、「オリジナル曲を一曲歌ってほしい」と音楽監督のいずみたくに依頼され、スタッフの松原史明より紹介された歌だったのだ。しかも、ダークダックス、坂本九、マヒナスターズといった当時の人気歌手との競作であり、まだ駆け出しだった岸にとっては、「ただひたすらていねいにうたい続けるだけ」だった。その歌が、岸を全国区の名前の知れる歌手へと導いていくことになったのだ。
岸は、偶然ともいえる数々の歌との出会いを無駄にはしなかった。例えば、ふらりと降りた町で、誰かと出会い、破局を恐れずに恋に落ちることが出来る旅人のように、岸は、出会った歌と「ていねいに」向き合い、その歌を貪欲に「熱っぽく」妖気あふれる歌へと変貌させていく。
「希望という名の あなたをたずねて
寒い夜更けに また汽車にのる
悲しみだけが あたしの道連れ
となりの席に あなたがいれば
涙ぐむとき そのとき聞こえる
希望という名の あなたのあの唄
そうよあなたに また逢うために
あたしの旅は いままた始まる」
(『希望』作詞:藤田俊雄 作曲:いずみたく)※
岸の生き様そのもののようなこの歌が大ヒットしたその年、彼女は膠原病と診断され、闘病生活と歌手活動の両立を余儀なくされる。膠原病は「歌をやめる時期を考える」ほどつらいものであった。しかし、岸は断続的に闘病生活を続けながら、ステージに立ち続けることを選ぶ。
「小さい頃からプリマドンナを夢みて歌の世界以外は思いもつかなかった私ですが、こうして25年の年月を重ねてみると、歌い続けてきたこと、歌うことのできた幸せを、今、強く感じています。そして、何よりもこの年月を確かな手ごたえにしてくださったのは、多くの皆様の変わらぬ熱い拍手です。私も、私の歌の熱い炎が消えないかぎり30年、40年と歌いつづけることができたら……『人生はいいもの』と思います」
自らの「歌への想い」に貪欲であることを恐れなかった岸が、『希望』という名の歌に出会ったことは、必然であったのかもしれない。
<参考文献> 岸洋子(1983)『さくらんぼの楽譜』報知新聞社 岸洋子(1991)「二人三脚の人生」(『山形教育』No.266(1991年5月号)pp.44-46.山形県教育センター)
<謝辞> このコラムを作成するにあたり、山形県酒田市立資料館の糸谷聡様、山形県酒田市教育委員会文化課長浜毅様に、岸洋子さんに関する年表、リサイタルのパンフレット、自筆のエッセイなど貴重な資料を提供頂きました。お二人の温かいお心遣いに深く感謝し、心より御礼申し上げます。
文責:佐藤由紀(東京大学大学院学際情報学府)
※ JASRAC許諾 第J060313389号
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