予備調査に行って
宇野重規
思えば、いい意味で、予想を裏切られ続けた予備調査旅行であった。
まず、みんなから「寒いぞ、寒いぞ」と言われ続け、重武装して雪だるまのように着膨れした私たちの一行であったが、天気が良く、風もなかったため、思ったよりはるかに暖かく感じられた。むしろ、釜石のみなさんの方が、互いに、あいさつのように「寒くて、寒くて」と話されているようだった。 新日鉄釜石製鉄所の所長さんも、室蘭から転勤されたばかりということだったが、「南に来れば、少しは暖かいと思っていたのに、こっちの方が寒かった」と、こぼしておられた。要は、期待値と実際の落差によって、体感温度は違うということだろう。
町の人の雰囲気も、予想とは違った。今回現地に行くまで、たいへん申し訳ないが、私たちの釜石に対するイメージは、やはり「高炉の火が消えた町」であった。データによると、ピーク時には9万人を超えた人口が、いまや4万3000人、世代別に見てもっとも人口が多いのが50代という。活気のない町をどうしてもイメージしがちだったことは否定できない。
が、釜石の方々は予想外に元気であった。もちろん、外から来た人間に精一杯元気なところをみせようと張り切って下さったという側面もあるのかもしれない。ホスピタリティもあるだろう(宿のおかみさんはともかく元気がよく、いつも両手を広げて話をされるのが印象的だった。車の運転中はあぶないと思うけど)。でも、会う方会う方、パワーのある人が多かった。2日間の予備調査中、笑ってばかりいた気がする。
思うに、高炉の火が消えて、はや15年以上。その後幾多の苦難を越え、ある意味、一回りサイクルを終え、なんとか次の上昇の糸口を探っている、そんな時期に、たまたま私たちが訪問したのかもしれない。「いいタイミングで来た」という言葉を複数の方からいただいた。
市の職員の方々が、まず元気だった。今回2日間にわたって同行してご案内いただいた佐々室長をはじめ産業政策課雇用推進室のみなさんは、どの方も若くて、がたいが良かった。聞けば、さすがラグビーの町、市の職員でも、ラグビーに限らずスポーツで鍛えていらっしゃる方が多いという。お会いした市長さんも、後で聞いたら、柔道7段とのことだった。夜の懇親会には、助役さんや市の課長さんクラス、さらには新日鉄関係者や青年会議所のみなさんが勢揃いして下さった。お酒で口がなめらかになるや、町の歴史を語る人(幕末、高炉を作った大島高任と、三閉伊一揆の首謀者三浦命助がヒーローらしい)、家族の話をする人(都会に暮らす息子さんの話、とか)、馬鹿話(失礼!)をする人と、ともかくにぎやかだった。
「希望学」などという、わけのわからない話をもちかけられ、さぞや戸惑っておられるのではないかと危惧していたのだが、「いいじゃないですか、希望学」とおっしゃって下さり、こういう人の話を聞いたらいい、などと提案して来て下さる方が多かった。
訪問先の方たちも元気だった。海産物やその廃物から、最近注目されている機能性食品の抽出を進めておられる協同組合マリンテック釜石のみなさん、チョウザメ(キャビアで有名だけど、身もおいしいらしい)の養殖にチャレンジしている株式会社サンロックのみなさんなど、事業の前途について、けっして楽観はしていないものの、夢を熱く語って下さった。
釜石市民の一つの特徴は、出身地がかなりちらばっているということらしい。新日鉄関連で日本各地から集まった人や、その二代目が多いことが一因だろう。林芙美子はその小説のなかで、釜石を「東北の上海」と例えたというが、わからないでもない気がした。そのせいか、住民の気質は開放的で、外から来た人に対しても打ち解けやすいという。
もちろん、たかが二日間の訪問で、釜石について何ごとかを語ろうとするなど、おこがましいだろう。この町は、重い過去の歴史をひきずっているのであり、その重い部分を、いきなりやってきた人間に、そう簡単に見せるはずがない。その一端は、鉱山跡を見学しに行ったとき、思い知らされた。大橋地区はかつての鉱山町ということだった。その人口は1万人を数え、映画館や飲み屋などが林立していたという。が、今やほとんど住民もなく、谷間の住宅跡地は更地になったままである。わずか数十年前には、多くの人の声で満ちあふれていたであろう、町のメインストリートを歩いていて、なんだかおそろしい気がしてきた。一万人の人とその町は、こつ然と歴史の闇に消えてしまったのだ。土地の記憶は、たいへん立派な鉱山事務所の建物(今は主に展示室に使用している)から、推し量るばかりである。帰り際、なぜか野生のカモシカ が近くまでやってきて、こちらをじっと見つめたあと、ぴょんととびあがり、森に消えていった。
過去の記憶について、そのいい部分も、そうでない部分も含めて、「むきあっていかなければならない」と、佐々室長が車の中で静かに語っていたのが、印象的だった。
平成18年度は、釜石を内陸部と隔てていた仙人峠に新しい道路が完成するほか、防波堤や埠頭拡張の完成など、釜石にとって歴史的な年になるという。しかし、重要なのは、そのようなインフラ整備だけでないことを、市役所の方々も語っておられた。行政と企業、第三セクターや各種団体の壁を越え、いかに多くの市民をまきこんで盛り上げていけるか。その種はまきつつある、あとはそれがどう育つかだと、示唆されているようだった。
希望学のプロジェクトとしては、そのような釜石における、過去からの記憶と未来への種の両面を見ていきたいと思う。問題は、はたしてそういう希望学の調査が、せっかく歓迎して下さり、協力を申し出て下さっている釜石の方々に、何をお返しできるか、であろう。過去からの記憶がどのように語り継がれ、どんな種がどのように育っているのかを、研究者として見つめることで、記憶の樹の幹が少しでも太くなり、まかれた種が少しでも大きく育つことに寄与できたら、と願っている。
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