大学院時代の釜石の思い出
青木宏之
釜石をはじめて訪れたのは1999年の夏である。その目的は、修士論文作成のための資料調査であった。私は大学院の修士課程の2年目になって、ようやく修士論文のテーマを決めた。鉄鋼業の労務管理や生産管理の歴史を調べようと思ったのであるが、鉄鋼業に関してはほとんど知識がなかった。研究書にはA社とかB製鉄所とか記されていて、いったいどこの会社なのかよく分からない。しかし、製鉄所といえば釜石製鉄所と八幡製鉄所くらいは頭に浮かんだ。いろいろ検索していると、釜石には「鉄の歴史館」という博物館があるということがわかった。
大学院生時代はお金がなく、旅費が無駄になることを恐れて、電話で「鉄の歴史館」にどのような資料があるのかを聞いてみた。館長さんに取り次いでいただいて、自分の書きたい論文の主旨を説明した。すると、「それならたくさんあるからとにかく一度きてください」という趣旨の心強いお返事をいただいた。
偶然、当時の大学院のゼミナールの参加者数名が、盛岡市内にある古文書を見に行くというので、一緒に岩手県に向かった。その中にいた妻(当時は同級生)の北上市内にある実家に、皆で押しかけて二日間泊とめてもらった。車も借りて、仙人峠を越えて釜石へ向かった。曲がりの大きな険しい道で、少し危ない場面もあった。
私は、初めての学術調査で気持ちが高ぶっていた。「鉄の歴史館」につくと、菊池館長が丁寧に資料室を案内してくれた。そこで出されたのは製鉄会社の社史、鉄鋼業を対象とした書籍、鉄作りそれ自体に関するかなり古い資料であった。要するに、空振りであった。書籍は豊富だったがそれは大学の図書館にも所蔵されていたし、鉄の製造過程それ自体の資料は自分のテーマには役に立たなかった。私がうなだれていると、館長さんは釜石製鉄所の労働部と労働組合の方々を紹介してくれた。そこから調査が本格化することになった。
まずは労働組合に電話をしてみた。組合長は不在ということであったので、その日はいったん北上に戻った。旅行の日程は限られているので、翌日アポなしで組合事務所に行ってみた。すると、組合長にかなり厳しく怒られた。というのもきちんとアポも取っていないし、よく考えると自分の格好はGパンにTシャツであった。身分も不確かな男がいきなり「こんにちは、何か資料見せてください」とやってきた感じである。今から思えば、フィールドワークの基本を無視した無謀な行動だった。とにかく、応接ソファーの上で約1時間、謝り通して、ぐったり疲れて東京に帰った。
その後、すぐにネクタイを締め、菓子折りを持って出直すことにした。最初、怖かった組合長も今度はやさしくしてくれた。釜石製鉄所の労使関係のことを教えてくれたり、「お前、胃が弱そうだな」といって漢方をすすめてくれたりした。それはとても苦い味がした。労働組合には、膨大な量の労使交渉の資料が保存されていた。私にとっては宝の山だった。また、労働部や労働組合のOBの方々が、釜石市内にお住まいであったので、文書資料でわからない部分は、聞き取りで補った。
それ以降、春休みと夏休みの年二回、毎年釜石で資料調査と聞き取り調査をするのが、大学院の博士後期課程での恒例の行事になった。当時、JRでやっていた「早割り切符」で、月曜の朝6時ごろに上野からやまびこにのり、釜石線に揺られてお昼前には製鉄所に到着した。そして金曜までめいっぱい資料を読んで、土曜の朝に東京に戻るのがいつものパターンだった。
滞在中は、毎朝8時ごろに製鉄所に行き、夜の7時ごろまで古い資料を読みあさった。50年も昔の資料を読んだりしていると埃と汗とが混じって体がべとべとになるので、いったんホテルに戻り、お風呂に入ってから夕食に出かける。しかし、9時近くになると商店街の飲食店がほとんどしまっている。あいているのは赤提灯のお店だけである。
調査は一人なので夜が暇だった。組合の方に「のんべい横丁」をといわれる飲み屋街を紹介していただいたので、1日おきくらいで、そこで一人でお酒を飲んでいた。カウンターで5人くらいしか座れない簡易なつくりのお店が、通りにずらっと並んでいた。初めてのときは、どこも同じに見えたのでとりあえず適当に入ってみると、60歳くらいの女性の店主と酔っ払ったおじさんが一人、店にいた。とりあえず座って、周りを見回してもメニューがない。「食べる?」と聞かれて、「あ、はい」というと、イカの刺身と煮物が出てきた。たぶんこれしかないんだと思った。「浜千鳥」という日本酒がおいしかった。
「のんべい横丁」では、釜石の昔話などを聞けて楽しかった。製鉄所の従業員が多かった時代にはたくさんの人で賑わっていたこととか、交替勤務で朝方仕事が終わる労働者のために朝からお店を営業していたことなど。特に記憶に残っているのは、「釜石時間」という話だった。釜石の人はノンビリしていて、時間にしばしば遅れたりするという。そんな釜石人の気質を表す言葉である。工場制度の発展がそこで働く人や町に与えた影響の一つは生活時間の規則化だという議論を学んだことがある。そんな先入観があるので、釜石という工業中心の土地柄とはそぐわないような気もした。ただし、確かに、実際に接する人はノンビリした人が多かった。もしかすると、漁業を中心とする区域の言葉なのかもしれないと今になって思った。
こうした経緯で、私は大学院時代(1999年〜2003年)に釜石製鉄所の調査をすることとなり、無事に論文もまとめることができた。最近2年ほどうかがってなかったのであるが、今度は希望学を通じて釜石に来ることになった。希望学では、職場の技能伝承の問題や戦後の現場管理の歴史などを調査する予定である。私にとっては大変関心深いテーマである。このような形で再び釜石と関わることになるとは思ってもみなかった。よほどのご縁があるのだと思う。釜石研究は生涯のライフワークになるのかもしれないと秘かに思っている。
青木 宏之(あおき ひろゆき)
日本学術振興会特別研究員(東京大学社会科学研究所) (*現在は高知短期大学准教授)
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