2005年、希望学は東京大学社会科学研究所(通称「東大社研」)の十人の研究者によって始まった。私たちは、法学、政治学、経済学、社会学などの社会科学と呼ばれる学問を総動員し、個人の内面の問題とみなされてきた希望を、社会にかかわる問題として考えてきた。四年にわたる研究のあいだ、海外の研究者や哲学者や人類学者なども加わり、四十名を超えるユニークな一大プロジェクトとなった。
希望学は三本の柱から成り立つ。第一が希望の思想研究である。過去の研究を紐解くと、希望について正面から論じた文献は、宗教に関するものを除けば多くない。そこで希望学では、従来から言及も多かった「幸福」「安心」「リスク」「楽観」といった概念と対比しつつ、希望の輪郭を描き出した。
「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。
第二の柱は、データ重視の実証分析である。希望学では二度の全国調査を実施、希望を持つ人と持たない人の違いを検証した。二十歳以上六十歳未満の約二千人に対する調査からは、三人に一人が「希望がない」もしくは「希望はあっても実現見通しがない」と答える日本社会の実態があった。
反対に、実現見通しのある希望を持つという個人の特徴にも迫った。定量分析では、収入、仕事、教育、余命、健康などによる選択可能性の程度が、希望を左右することが明らかとなった。それゆえ高齢社会、経済停滞、進学困難、健康不安などは、希望の喪失感の広がりに直結する。希望は人間関係にも影響され、共同体的結束の弱まりや孤独化現象の深まりも、希望のなさに拍車をかけている。
定性分析からもいくつかの事実が見出された。過去に挫折や失望を乗り越えた経験が、将来に希望を持つ傾向を促す「挫折による学習効果」。無駄を一切排除する志向性が未来への創造性や柔軟性をも奪ってしまう、希望に対する「負の効率効果」。これらは、今後さらなる検討が求められる新たな発見である。
第三の柱は、岩手県釜石市を対象とした包括的な地域調査である。鉄の街として繁栄し、ラグビー七年連続日本一という偉業により、全国にその名をとどろかせるなど、釜石は、かつてまぎれもなく「地方の希望の星」だった。釜石は現在、人口減、高齢化、産業構造の転換など、日本に迫り来る近未来を一身に体現している地域である。その地に多くの研究者が何度も赴き、希望の再生に向けて行動する人々と対話を積み重ねた。
その結果、地域における希望の再生には「ローカル・アイデンティティ(地域の個性)の再構築」、「希望の共有」、「地域内外でのネットワーク形成」の三つが不可欠という仮説に、希望学は辿りつくこととなった。
その他、希望学では、家族崩壊、性売買、人体実験、民族 今後これらの成果が議論のたたき台となり、日本発の新しい学問である希望学が、多くの人々の手によって進展していくことを期待している。
希望学は、東大社研の研究所を挙げた全所的プロジェクトとしては、2008年度をもっていったんひと区切りとした。ただ、希望学は2009年4月から7月にかけて、東京大学出版会より『希望学(全4巻)』を刊行したことなどから、ありがたいことに、多くの方々に高い関心を引き続きお寄せいただいている。またイギリス、アメリカ、オーストラリアなどでの講演をご依頼いただくなど、海外からの注目も集めつつある。
そこでこれからも希望学は、多くの有志の手によって継続していくこととした。
具体的な今後の取り組みとしては、福井県を舞台に希望を、仕事、生活、家族、子ども、女性などのキーワードと関連づけつつ、調査研究を開始する。また2006年度から実施している岩手県釜石市での調査も継続する。さらにはアメリカのコーネル大学などと連携しながら国際比較研究を実施する。加えて希望学の成果を、学校でのキャリア教育や、会社におけるキャリアビジョンの構築に役立てるような取り組みも行っていく予定である。 今後とも、希望学にご期待いただきたい。 2009年7月23日 |