『ビッグイシュー日本版』第34号(2005年9月1日発売)
どこかネジれていて、パラドキシカル──希望って何だろう?
玄田 有史
最近、私の所属する研究所(東京大学社会科学研究所)では、希望学という新しい研究を始めている。希望とは何か、希望と社会とはどんな関係があるのかなどを、調査やインタビューを通じて明らかにしようと考えている。
その一つとして、これまでの希望にまつわる格言を調べてみることにした。まず目についたのは、希望こそが幸福の源といった言葉だ。「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスによれば、「つまらぬ財産を持つより、立派な希望を持つほうがマシだ」と言う。希望と幸福の関係について、ドイツの詩人であるシェーファーは「悩むかぎりは希望を抱け。人間の最高の幸福は、つねに希望、希望である」とも語る。ヘレン・ケラーについて、小さい頃にその伝記を読んだ人も多いだろうが、視聴覚重複障害を持ちながら多くの偉業を成し遂げた彼女は「希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ、何事も成就するものではない」と言う。さすが希望の人、ヘレン・ケラーだ。
一方で、希望について、幸福よりもむしろ、絶望や断念との深いつながりを語る言葉も少なくない。有名なのは、中国の作家である魯迅がハンガリー詩人ペテーフィを引用して言った「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」。日本の三木清という哲学者も語る。「断念することをほんとうに知っている者のみがほんとうに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つことができぬ」のだと。
「異邦人」で有名なフランスの作家であるカミュも「希望とは一般に信じられている事とは反対で、あきらめに等しいものである」と言う。ただ同時に「そして、生きることは、あきらめないことだ」とも語るのだ。これだけ読むと、希望が大切と言っているのかどうか、何だかわからなくなる。ジョン・フレッチャーという作家にいたっては「希望は、それを求める気の毒な人を決して見捨てはしない」んだそうだ。
希望について、そのすばらしさをストレートに語る言葉に惹かれもするが、ちょっと矛盾めいたネジれた感じの表現も、私は結構好きだ。実際、そんな一筋縄ではいかない希望の姿を、全国の20代から40代にご協力をいただいて実施した、希望学のアンケート調査からも感じることができる(詳しくは次頁コラム参照)。
調査では、小学6年生や中学3年生の頃に、なりたい希望の仕事があったかどうかをたずねてみた。すると、小学6年のときになりたい仕事があった人は全体のおよそ70パーセント、中学3年でも約60パーセントは具体的な職業希望を持っていた。
そこで続けて、働いた経験を持つ人たちに、そんな小さい頃に希望していた仕事に、実際就いたことがあるかも、きいてみた。すると、中学3年に希望していた仕事に就いた経験があるのは、たった15パーセント。小学6年の希望にいたってはわずか8パーセントにすぎない。小さい頃からの希望する仕事は、ほとんどが実現しない夢に終わっているのだ。
多くの個人の希望は実現しないし、最近の社会も、希望格差社会とか、希望のみえない時代とか、いわれたりする。けれどよく調べてみると、案外みんな自分なりの希望を持って生きているのも事実だ。アンケートにお答えいただいた方のうち、4人に3人は、何がしかの具体的な希望を将来に持っていた。なかでも多いのは、仕事についての希望だ。多くの人が、やりがいのある仕事をしたいと思って生きている。
では、どんな人がやりがいのある仕事についたことがあるかも調べてみた。すると先ほどの、小さい頃に希望する職業を具体的に持っていた人の方が、持っていなかった人に比べて、やりがいのある仕事に就いていることは、圧倒的に多かったのだ。その仕事の多くは、当初から希望していたものではなかったのに。
もっと調べてみる。多くの人は、自分の人生を「まあ幸福だ」とか、「あまり幸福ではない」と、ほどほどに幸福を感じて生きている。ただ、今の人生を「とても幸福」と感じている人もいて、そのなかでも過去になりたい職業を具体的に持っていた人が結構多いのだ。
希望というのは、求めれば求めるほど、出会うことがむずかしくなる。だから希望は多くが失望に終わったりする。しかし、そんな失望による挫折やショックのなかでこそ、自分の進むべき道を軌道修正したり、理想と現実のすりあわせをしたりする。その過程で、希望を持たなかったならば実現しなかったような、充実に出会ったりできるのだ。
希望は実現することだけに意味があるのでなく、むしろ失望するなかにこそ価値がある。希望は多くが実現しない。けれども希望を持たなければ、失望してみなければ、たどりつけない未来もある。
確かに希望はどこかネジれていて、パラドキシカル(逆説的)だ。でも、それこそが希望の真実なのだと、私は思っている。