セミナーの記録と日程

全所的プロジェクト研究

第18回プロジェクト・セミナー
原子力発電とエネルギーセキュリティ→【討論】

2000年5月23日 ◆於:社研大会議室
報告:鈴木 達治郎

第18回プロジェクトセミナーでは鈴木達治郎氏から報告がなされた。

II

III

 70年代に入ると、軽水炉がどんどん建てられたが、そこから出る使用済み燃料がたまるに従い,地元住民との約束により、すぐに他に移さざる得ない状況,かつ再処理工場は東海村のみということから海外に再処理を頼むこととなった。当初はアメリカの再処理工場をあてにしていたが、計画が挫折し、イギリス、フランスの再処理工場に依存することになった。工場建設費,サービス料共に払い、かつ、再処理物質は即時持ち帰りという、かなり相手にとって好都合の条件をのむこととなった。

 この当時ウランの開発が世界中で進み、実際には埋蔵量が多いことが明らかになってきた。

 また1974年のインドの核実験後、米国内で民生用プルトニウムの核兵器への転用危険性が注目され始め、1976年にはフォード大統領が民生用再処理の一時凍結を発表し、77年にはさらにカーター大統領は民生用再処理、FBRの商業化はしないとの政策を発表した。これは原子力に携わる人々にとってショッキングな出来事であった。これによって従来のFBRによる原子力利用という常識が覆されることになった。再処理とプルトニウム利用を政治的に止める事に日欧の反発は強く、その後の国際核燃料サイクル評価会議では、どういう核燃料サイクルが核兵器の拡散につながらないかについて政治的議論が交わされた。この会議における議論の結果は「核拡散問題は、どういう技術を使おうが差はない」という曖昧な結論のうちに終わるが、その後の日米交渉は約10年かけて困難をきわめながらも,1988年の日米原子力協定改定につながった。その内容は

  1. 包括同意性の導入:使用済み燃料の再処理ついて、ケースバイケースでアメリカの同意が必要であったのが30年のパッケージでアメリカの了解を得られるようになった。
  2. 汚染条項の導入:アメリカよりのライセンス技術で製造された原子炉すなわち日本の軽水炉では、米国以外から購入したウランであっても使用済み燃料はすべてアメリカの影響下におかれることとなった。
  3. プルトニウム輸送に関してはケースバイケースでアメリカの同意が必要となった。
    このように核燃料サイクルは核物質であるプルトニウムを扱う以上、国際政治の影響を受けないわけにはいかず、特にアメリカ核不拡散政策の影響から免れることは当分不可能となった。

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<記録:中島美鈴>