セミナーの記録と日程

全所的プロジェクト研究

第17回プロジェクト・セミナー

2000年5月16日 ◆於:社研大会議室 ◆司会:平島健司

改革の90年代を振り返  報告:山口 二郎る

90年代の政権変化と政党対立軸の流動化  報告:増山 幹高

第17回プロジェクトセミナーでは山口二郎氏と増山幹高氏から、それぞれ報告がなされた。

【山口 二郎】  改革の90年代を振り返る   →【討論】

はじめに

1.90年代の改革課題の全体像

2.改革のアジェンダ・セッティング

政治改革の先行

 自民党政治の中でリクルート事件、佐川急便事件などがおこり、88年〜89年あたりから急速に、「政治改革」が日本の政治を論じる時のキーワードになっていった。もともと自民党政治の腐敗をどう正すかが問題であったので、むしろ「党改革」のほうが適切な言葉であった。しかし竹下政権のもとで政治資金規制問題、選挙制度改革などを広く含む改革として「政治改革」という言葉が使われ、論点の拡散が始まった。

 それが結局「選挙制度改革」にすり変わっていったが、それは選挙が政党政治家自身の一大関心事であったことと、選挙のしくみを変えることによって政党の仕組みや政治家のビヘイビアが変わるだろうという期待があったことが理由である。2大政党制へ政党再編が起こるだろうという期待もあった。

 しかし選挙制度だけ改革してその結果はどうなるか、という議論はなされなかった。現実には政党政治家は地域や業界団体の陳情を受けて中央省庁に働きかけ、補助金等を獲得する、ということに日々エネルギーを割いており、選挙はたまにしかめぐってこない。

「政治改革」といいながら日常の政治活動とある程度離れた選挙制度をいじることにエネルギーが注がれ、これが最初に処理すべき争点ということになってしまったので、94年にこれが実現するとあとの政治改革はしぼんでしまった。

・行政改革

 96年の総選挙でその必要性が叫ばれ、97年にかけて橋本行革と呼ばれる改革が取り組まれた。

 これはグローバリゼーションへの対応、近代化達成後の行政システムの再編、等々いろいろな課題に応えようとしたもので、一定の評価は出来る。しかし省庁の数の半減、公務員の数の削減など、実質でなく外枠の話にすり替わっていってしまい、中央省庁の役割などは議論されなかった。

 イギリスの改革の例で見ると、どのレベルの政府でなにを担うかという役割の補完性をベースに、地方から積み上げて全体をデザインしていった。日本の行政改革にはこうした議論はなく、霞ヶ関の担う仕事の量は変えずに行政の体制をどう再設計するかという議論であった。

 地方分権については、90年代の改革で唯一まともな成果を上げつつある。これは村山政権が出来たときに発足し、従来とは違うメンバーが審議会に入った。そこで具体的な話に踏み込んで制度設計をしていった。政治改革と分権政策は改革のプロセスが対照的であった。

 政治改革=選挙制度を変えることは必要なことだ、マスコミもそう報道し、世論もそちらへ動いた。その意味では、選挙制度改革は、反改革派不在の改革であり、選挙制度を変えたあとどうなるかというシミュレーションが全くなされなかった。これに対して、分権改革に関しては、補助金制度など現状のシステムを擁護する対抗グループが強力であった。改革派はそれと議論しつつしっかりした改革案を洗練させていき、改革後の帰結の予測、シミュレーションもある程度なされた。行政改革はその中間で、改革の壮大なビジョンを持つ改革派があり、現状を擁護する反論も広範に存在した。結局改革派は名を取り、実を反対派に取らせた、ともいえる。

3. 改革の批判と政治学

<記録:土田とも子>