【山口 二郎】 改革の90年代を振り返る
→【討論】
1.90年代の改革課題の全体像
言葉の問題
90年代は、政治改革、行政改革、経済構造改革、行政構造改革、最近では憲法改革まで、いろいろな改革が構想されたが、これは個別の改革というより一連のつながった改革であった。
政治改革は、当時リクルート、佐川急便事件など政治の腐敗が明るみに出て、これを正すということから始まった。しかしこれが「政治改革」という言葉で呼ばれ、一連の改革論議の最初に登場したということが、これら改革にとって不幸であった。
イギリスではブレアがconstitutional reform という言葉を、情報公開、上院の改革、地方制度の改革等々を束ねる包括的なシンボルとして使い、一定の成果を上げた。これは同時に、古いconstitutionをmodernize するというニュアンスが含まれていた。日本の場合90年代の目指す改革のイメージ・全体像を表す言葉がまず見出せなかった。
統治システム
統治システムは、㈰入力システム(社会から政治的要求や資源を入力する)、㈪変換システム(㈰を政府のレベルで具体的な政策に変換して予算や法律を作る)、㈫出力システム(㈪を社会に出力していく)の3段階の循環で示すことが出来る。
90年代はこのどの段階でも、以下のように問題が噴出した。
- 入力システム 代表決定のメカニズム、参加と争点表出のチャンネルなど様々な問題が噴出した。現実には、選挙制度の改革に当事者の関心が集中してしまい、争点表出の機能がやせ細って、人々の関心を吸い上げて表に出すことが出来なくなっていた。それへの反発がのちに地方における直接民主制や住民投票、市民立法の要求といった形ででてくる。
- 変換システム ここで特に問題となったのは政・官関係と、政策課題を実現していくプロセスで誰がイニシアティブをとるかということである。政権交代が実現して改革を掲げ、新しい政党の組み合わせによる政権が発足した。しかし、政党自身の主体の問題もあり、政・官関係の制度的な枠組みもあって、政治的イニシァティブを発揮することが困難であった。細川政権は結局何をやりたかったのかよく分からないうちに敗退した。その背後には個々の立法手続の膨大なコスト、行政の分業システムの固定化等で、トップが改革を考えても具体的な政策として展開することは簡単ではないという事情がある。この政・官関係の問題は、その後の橋本行政改革、即ち首相のリーダーシップの強化も意図した改革につながっていった。
- 出力システムについても90年代は問題が起こった。このプロセスはお金や権限など政府の資源を社会に適用していく過程、政策のimplementationの過程である。たとえば規制における裁量行政では、90年代後半に金融システム等で問題が噴出した。また中央・地方関係では、機関委任事務、補助金行政など地方自治体が事実上中央省庁にとって政策実施のための手段として強い統制のもとにおかれ、機能不全を起こした。その中では市民的感覚からは容認できないような慣習が続いていた。
また、出力システムによる入力の規定が明らかになった。公共事業等に見られる、大きな財源・権限を持った強い官僚機構が存在し、官僚出身議員を送り込むなど自らの既得権の存続自体を目的としている。本来政策は需要が供給を規定するものだが、供給が需要を規定するかたちで、硬直的な縦割り行政を自己保存していくような状況があった。こうした構造から疎外された有権者、いわゆる無党派層の市民は、既得権集団の力の前に政治参加意欲をうしなっていった。
ともあれ、90年代の改革の課題は大変膨大かつ多岐にわたったものであった。
<記録:土田とも子>
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