セミナーの記録と日程

全所的プロジェクト研究

第9回プロジェクト・セミナー

1999年12月21日 ◆於:社研大会議室 

先進国における国家変容—日独比較の視点—  報告:平島 健司

1980年代以降のイギリスの憲法・行政法改革  報告:中村 民雄

第9回プロジェクトセミナーでは平島健司氏と中村民雄氏から、それぞれ報告がなされた。

【中村 民雄】  1980年代以降のイギリスの憲法・行政法改革  →【討論】

1.1980〜90年代の保守党政権による行政改革

2.現在の労働党政権による憲法改革

 一連の行政改革とは別個独自にヨーロッパ法が憲法改革への圧力をかけていたという事実が同じ時期にある。話す2000年代の憲法改革の予兆になるのは、90年代のヨーロッパ法の圧倒的な威力である。これを話すと非常に長くなるが、かいつまんで話すと、まずFactortame事件という漁師の話がある。北海での漁業はEUでの漁獲割り当てのもとに置かれている。スペイン人が自分の国の漁獲割り当てが少なかったのでイギリスに会社を建ててイギリスの漁船として登録してイギリスの漁獲割り当て分を使って漁をした。これに対してイギリスの国内の漁師が怒って、割り当て破りであり駆除立法をしろと国会に圧力をかけて、国会が88年に法律を通した。そこではイギリス人かイギリス人が75%以上の株をもった会社でないとイギリスの漁船登録ができないとされた。明らかに国籍差別の立法であってEC法の現在の12条の根本的な違反になる。当然のことながらEC法違反とされた。最初のうちはイギリスの裁判所は対応に苦慮していた。例えば漁師が、88年の立法を我々に対して執行することを差し止めろという仮差し止めの請求をした。そうすると裁判所は伝統的にコモン・ロー上は王様に対して命令を出すことはできないと答え、EU裁判所に先決裁定を求めるとEU法上の仮差し止め権があるということになり、ようやくイギリスの裁判所が仮差し止めを認めた。しかし原告らは、すでに漁獲ができなくなり損害が出ていたので、次に損害賠償を請求した。そうすると国会の立法であるから集合的な責任によっていて個々の議員の責任は問えないので、誰の不法行為であるかわからないから損害賠償はできないというのがイギリス法であった。これに対し、EU裁判所は、EU法上の違法行為について、とりわけ重大な行為については国家の賠償責任も生じるという返答をした。このような対話のプロセスから次々とイギリス法が覆されていった。根本的には国会で何でも立法ができると考えていたイギリスの国会主権の原則という憲法原理そのものが否定された。EU法が今年の11月に損害賠償額を確定したので訴訟が終わったが、10年越しの訴訟でEU法の力がいかに強いかということをイギリス人はひしひしと感じたわけである。さらには狂牛病騒動でイギリスの牛肉は世界のどこにも輸出できないというくつわをはめさせられた。

 もうひとつは忍び寄るヨーロッパ人権条約の影響である。ヨーロッパ人権条約については国内基準を整備していなかったので法的には存在しないも同然であったということがイギリスの裁判所の扱いであったが、ヨーロッパ人権裁判所に個人の申し立て権が認められると、国内救済を受けられなかったイギリス人がストラスブールの裁判所で政府に対しての判決として勝訴判決を導くという例が後を絶たなかった。そこでヨーロッパ人権条約をどうにか受容しなければならないという動きが出てきて、一部の急進的なコモン・ロー裁判官の中にはコモン・ローがすでにヨーロッパ人権条約を織り込み済みであるという発言をするにまで至っていて、ここまでくるともう立法化しないとだめだということになった。特に80年代、90年代には行政改革が進んでいたが、憲法の部分では二つのヨーロッパ法=EU条約と人権条約の圧倒的な影響力が浸透していった時代である。そこで2000年代を予兆するような労働党政権の現在の憲法改革プログラムが出てくる。

 まずは1950年代からの課題で、地方分権Devolutionがある。これは50年代と変わらないのではないかという議論に対してひとつ付け加えておくと、実は大きな違いがあって、それはEUとの関係である。地域振興基金、補助金の目当てのために地方自治体がブリュッセルに直接ロビーイングに出かけるという現状がある。すなわち地域は国家を飛び越してEUに直接アクセスするという政治がある。地域評議会というものがEUの組織としてあるが、そこに直接代表を送るという局面もある。こういうわけで地方が中央政府と比べて独自の存在になってきたということがEUをバックにして色濃く出てきた。このようにして一連の地方分権立法が矢継ぎ早に成立したわけである。

 国会改革では貴族院の世襲議員を廃止するという時代遅れの立法である。より大きな影響があるのは選挙制度改革である。これまでのイギリスの選挙制度は小選挙区制度であり、もっとも得票のあった人が当選するという制度があったので死票が非常に多く出た。これに対してヨーロッパ議会の選挙では、イギリスを除くほとんどの各国は比例代表の制度であり、イギリスも遅ればせながらヨーロッパ議会については比例代表選挙を導入することにした。これを受けて地方分権で成立したスコットランド、アイルランド、ウェールズの議会にも比例代表選挙を導入することにした。今後、イングランドの国会にどこまで比例代表が入るのかが焦点になっていくであろう。司法改革でからんでくるのは先ほど述べたヨーロッパ人権条約の国内受容であるが、もうひとつは民事訴訟制度の改革である。市民にとって利用しやすいコストのかからない民事訴訟制度というものが、サッチャー政権の頃からプランが練られて、99年に成立したのが民事訴訟改革法である。

 他方、EUそのものも1990年から2000年までの十年間で、いわば条約三部作によって変化をとげてきた。つい最近のEU諸国のヘルシンキでの会議では2000年末までに次の条約改定交渉を終えると宣言している。条約三部作と私が呼んでいるものは、マーストリヒト条約、アムステルダム条約、そして来るべき条約というものである。この三つでECからEUへと脱皮した。まずマーストリヒト条約で経済・市場統合をして、それに伴って統一政府に近いEUの存在をアピールすることから補完性原理や連合市民権といったような規定がつぎ込まれることになった。ただし永年の課題であった基本権の明文化といったことは失敗した。第二の柱の外交協力の部分は、ひとつのヨーロッパを実現するという冷戦構造の消滅後の対応を模索したにもかかわらず、実は形をつくるだけに終わっている。さらに域内の自由移動では、これを認めると犯罪者も自由移動することになる。あるいは対外的に移民・難民をどうするのかということを、声をそろえてやらなければならない。こういったものに対応するために第三の柱として、域内の警察協力や移民・難民の政府間協力を細々と始めたが、当然これに不満だった大陸諸国はECとは別枠の国家間条約(シェンゲン条約)を結び独走態勢に入り、一部先行でよいのかという問題が起こった。そういった問題を直すためにアムステルダム条約が必要になった。ここでの最大の課題は、東欧への拡大を見越してECの機構改革をする予定だったのが、ほとんど失敗に終わった。それに引き換えに第二、第三の柱のテコ入れが行われた。第三の柱でいえば移民・難民政策についてはECの第一の柱に移管してしまう。第三の柱については刑事司法協力だけに特化する。第二の柱は外交協力だが、ミスター・ヨーロッパあるいはマダム・ヨーロッパを作ろうという最初の案がうまくいかなかったので理事会の事務総長を祭り上げて代役をさせた。またひとつのEUの声を実現するためにEUに法人格を付与する必要があるのではないかという話が出てくるわけだが、これも棚上げにされた。もうひとつの目玉は柔軟性の原則である。これは、基本的には認めたくなくても、現実には構成国の利害は多様化しているから、一部の構成国が先走りをしたり、あるいは一部の構成国が現状維持で協力をやめてしまうといったことも認めるということである。

 今度の来るべき条約では積み残しの機構改革が最大の論点になる。第二の論点は自由・安全・正義の地域という合言葉の下に第二の柱すなわち外交協力をさらに強めて防衛政策の協力までにいく可能性もあろうと思われる。もうひとつは基本権の明文化であり、現在すでに始まっている。EU人権憲章というものが着々と起草されている。ここまできて加盟国25ヶ国あるいは30ヶ国というEUが実現するので、もはや全会一致の条約改正が不可能に近くなるので、そこでEU条約を二分化して憲法的条約と行政的条約に分けようという発想がでてくる。憲法条約とは基本的な組織と基本原則だけを定めた部分であり、行政的条約とは理事会でもどんどん改正できるようにしようというものである。こういった三部作のもとでEUは、ひとことで言うと、非常に政治化してきている。経済同盟だったものが、市民社会形成的な政治同盟に近くなってきている。ただ、その形がだいぶ崩れてきて、ECの形をとらなくなってきている。ECではなくて、政府間協力に少しEC的なものを混ぜたような独自の政府間協力のネットワークを作るということなので、EUそのものをどうとらえるかということが、ひとつ大きな課題として出てくるわけである。

3.日本との比較の視座

<中村民雄>