【平島 健司】 先進国における国家変容—日独比較の視点— →【討論】
9.ドイツの国家変容と日本の国家変容
以上を考え合わせると、80年代以降におけるドイツの国家変容は、全体としてどのように捉えるべきなのだろうか。まず、対外的には、ドイツは欧州統合への積極的関与を通じ一定の政策領域におけるガヴァナンスを、ヨーロッパレベルに拡張した。特定の領域について、他の加盟国と共同して問題解決能力を回復するために、主権の一部をEC/EUに委譲したのである。一方、欧州統合の過程とリンクしたとはいえ、国家統一は、歴史的な国家事業であった。単純化して言えば、旧東独地域に連邦共和国の国家制度を拡張し、そこに西と同様のガヴァナンスの構造が成立するよう期待されたのである。しかし、同じドイツ民族とはいえ、40年間に及ぶ社会主義体制の歴史の上に、高度に複雑な連邦共和国の社会システムを移植することに伴うさまざまな困難が軽視された。おそらく、最大の問題は、制度の定着に必要な時間の要素が無視された点にあった。その結果、移植された国家制度は、それが機能する上で補完的役割を果たすべき社会を欠き、さまざまな領域において安定的なガヴァナンスを構造化するに至っていない。
したがって、現在のドイツは、急速な統一から生じた財政的負担とガヴァナンスの機能不全の問題を抱えつつ、グローバル化の圧力を主としてEUを通して受けている、と言えようか。もっとも、構造政策と競争政策の関係に見られるように、EUは、ドイツの問題解決能力を高める一方で、ガヴァナンスのあり方に変更を迫りもしている。
こうした変化の中、CDUとSPDを中心とする諸政党は、選挙民に対して引き続き有効な政策選択肢を提示しようとして、多様化した利害の媒介に努めているが、政党システムも多元化の傾向を見せている。旧東独の体制政党であるPDSは、東の人々の不満を代弁する地域政党として定着し、緑の党は遂に連邦政権に到達した。献金問題によってCDUの混迷が続けば、極右政党も無視できなくなる。多元化した政党間の調整は、閣議や議会を離れ、ますますインフォーマルでアドホックな政党間協議の場にずれ込んでいく可能性が高い。93年に成立した「連帯協定」が示したように、連邦制や割拠された管轄を有する行政官庁は、ドイツの政治過程に複雑な調整を強いてきたが、社会集団や政党の内部に組み込まれた東西格差が、このような調整をいっそう困難なものにする可能性が高いからである。他方、政党による政治的決定の「インフォーマル化」は、国家制度の根幹を存続させたままで、政党の「カルテル政党」化を昂進させる可能性をもはらむ。いずれにしても、かつてブラント連邦政権が掲げたような、トップダウンの青写真としての「改革」なしに国家変容は進行しており、シュレーダー政権の与党となったSPD自体も分権的な方向に構造変化している。
このようなドイツの例は、日本の国家変容についてどのような示唆を与えるのだろうか。問題発見的に若干の仮説を提示してみたい。日本の政治においても、確かに80年代を迎えてサッチャーやレーガンの新自由主義を模した行財政改革が登場した。しかし、その背景がヨーロッパとは根本的に異なっていた。日本の経済は、二度のオイルショックを乗り切りつつあったのであり、その後の円高不況をも克服して自信を強めていた経済界が、小さな政府と財政赤字の削減を求めた。したがって、中曽根政権の政策には、雇用と企業収益のいずれを優先するか、というような切迫した二律背反はなかった。民営化が部分的に実行され、バブル経済によって顕著に増加した税収から恩恵を受けて財政再建は一応達成され、赤字国債の発行をゼロにすることができたのである。
続く90年代は、バブル経済の崩壊を見たが、半ばには景気が一時的に回復したこともあり、不況を長引かせた原因が、かつては国際的に注目された産業構造とグローバル化する世界経済とのミスマッチにある、という認識の共有に時間がかかった。対外的には、情報技術革命を遂行して80年代の不振を切り抜け、繁栄の局面を迎えたアメリカと、産業構造の転換と失業の克服に苦しみつつも、統合を共通通貨ユーロの導入にまで進めた欧州や、金融市場を中心とする経済のグローバル化に直面することになった。しかも、長期化する不況と失業の増大という未曾有の事態にあって現代日本の国家には、直ちに問題の解決に向けて活用できる手段が与えられていない。雇用問題の主要部分は、企業内部の解決に任されてきたし、かつて通産省が誇ったような産業育成手段ももはや存在しない。
一方、政党政治の次元では、冷戦の終結によって戦後政治の対立軸が消滅したにもかかわらず、自民党の分裂によって政界再編が進んだために、諸政党は、アドホックな争点をめぐる対立の演出にとどまり続けている。選挙制度改革も、強力な野党を生まずに終わった。諸政党から唱えられた改革の多くは、産業構造の変革にまで及ぶものではなく、官僚批判に沸き立つ世論に力を得て官僚制の改編に集中した。政党側からは、行政官庁によって仕切られたガヴァナンスを、経済社会の変革に向けて動員することはできず、改革の射程は、中央省庁と中央・地方政府間関係という国家機構に限定されてしまった、と言うべきだろうか。
確かに、橋本政権が掲げた6大改革には、金融制度改革や財政構造改革も数えられた。これらは、グローバル化に対する対応策として位置付けられたが、他方では規制緩和のペースに変化が見られなかったように、経済構造改革との間に有機的な連関を欠いていた。もっとも、住専問題を皮切りに顕在化した金融機関の不良債権処理問題や、官僚の不祥事問題がきっかけとなって表面化した財政・金融分離問題は、財政政策や金融政策全体の展開を著しく複雑なものにした。そこで織り成された政策過程を解きほぐすことは容易ではない。80年代の金融市場・資本市場開放、日米構造協議を経て内政にビルトインされたアメリカからの「外圧」も無視できない要因であったろう。
もちろん、金融自由化のように、グローバル化への対応は、政党政治のダイナミズムとは別の論理で進行しているのかもしれない。あるいは、日本の国内市場には、グローバル化の圧力が及びにくい領域が広く残されているのかもしれない。しかし、少子高齢化の中で、複数の管轄をまたぐ抜本的な制度改編が必要とされる社会政策改革や、歳出の見直しと税制改革を総合する財政再建への道筋が全く示されないように、いずれの政党も、長期的展望に基づく首尾一貫した改革のパッケージを提示していない。日本が、公共事業によって建設業の雇用を維持し、破綻した金融機関の救済のために公的資金を投入することは、ドイツが、高度に制度化された労使関係の枠組みによってこれ以上の失業を防ぎ、東部救済事業や社会保険制度を通じて旧東独地域を支えているのと同じように、弱者保護の観点からは必要であろう。
だが、日本の戦後国家が、他の先進国ではそれに対してさまざまな変革に踏み切らざるを得なかった環境変化に成功裡に適応し続けてきたとすれば、90年代の諸課題に対しては、徹底的な構造転換が必要とされているのかもしれない。ドイツでは、政治主導の改革であれ、市場や社会の条件変化に対してであれ、対応は、政策領域によって分節化されたガヴァナンスの適応として始まる。その上に連邦制国家のダイナミクスが重なるが、政党は、異なるガヴァナンスの領域を媒介しながら、全体としての問題解決を生み出すように働く(もちろん、問題の解決を阻害する場合もある)。これに対して、日本の中央集権国家にはどのようなメカニズムが備わっているのだろうか。さまざまな条件の変化のレベルを測りながら、政党、官庁、社会アクターの相互関係や異なる政策セクター間の関係を分析しなければならない。
<平島健司>
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