【福沢 啓臣】 グローバル化とドイツの大学改革
→【討論】
II
次に、グローバル化と大学改革だが、グローバル化といった場合、世界的な波が押し寄せてきて、それは日本にも押し寄せている。ドイツにとってもアメリカを中心とするグローバルかの波が押し寄せてきていると当時に、もうひとつEU内でのグローバル化というものがある。EU内の労働力の移動力が自由になったことは大きい。また、シュレーダー首相は、IT技術者の不足を補うためにインドや東欧出身者などにも「グリーン・カード」を与えるべきだと言っている。ドイツ国内で適切な労働力が得られない場合、ヨーロッパ内で公募して採用することもできるが、それでも足りない場合、他の国に出て行ってしまう。メルセデス社が、スマートという小さな自動車を製造し始めたが、ドイツ国内ではなくてドイツ国境に近いフランスに工場を建てた。ドイツの企業にとって、国内にいようがEU内にいようが、あまり変わりはないということになる。
そういうことと関連して、ドイツの大学が今まで通りやっていけるのかという問題が生じるが、ドイツの経済界などが問題にしているのは大学生の在学期間がとても長いということであり、卒業年齢が高いということである。職業教育を終了してから入ってくる人も多いので、卒業生は27歳から30歳くらいが普通である。1980年代からドイツの経済界は、なんとかならないのか、国際的な競争からみた場合、大きな問題であるとした。若い柔軟な知的労働力を欲して、あれこれやってきたが具体的な成果はあまり出ていない。また、ドイツの大学の大きな問題として、国際的な互換性が少ないということがある。ドイツでの学位について外国に言った場合、説明書をつけなくてはならず、また外国からの留学生がドイツで学位を取得しても母国でなかなかそれを認めてもらえないということもある。さらに中途退学率が多い(約40%)というのは効率が悪い。
問題になるかどうかは別にして、カリキュラムの自由選択率が高いということは学生にとってよいことだが、学費がないうえに自由選択度が高くてじっくり(ゆっくり)勉強しようということになると、卒業年齢がおのずと高くなることになる。自由選択というのは元来、ドイツの大学での少人数教育に端を発していて1950年代には大学に行くものは全国民の3%に過ぎなかった。本当のエリートで、そういう人たちの大学であったときには、自分で納得して卒業するということで自由選択は理想的であったが、今は18歳人口の30%が大学に入ってくるわけだから、同じように自由選択度の高いカリキュラムの下でやっていたのでは、ドイツの社会が要求するような高等教育のシステムとしては機能していない。
労働市場にマッチしないということは、190万の学生がいて、修士卒業がほとんどだが、そんなに修士の資格をもった卒業生がドイツ社会に必要なのかという疑問が出ている。もっと修士以前の学士にあたるような卒業資格を導入すれば産業界や労働市場の要求するような卒業生が得られると言われている。またドイツに来る留学生が減っていて、ドイツの高等教育が世界の中に占める割合や存在価値が減ってきているのではないかという声が出ている。
大学独自の入学試験がないことによって、学生はある程度大学を選ぶことはできても、大学側が学生を選べないということも問題になっている。またドイツではエリート教育が否定されていて、大学入学資格をクリアした人は皆大学に入れるが、それだけでは明確な能力差というものがわからない。教えている立場からすると、非常にできる、学生とどうしようもない学生が一緒に入ってくるので、それを選ぶことができないので、教育効果が悪いと言える。ドイツの教育システムの大きな矛盾だと思うが、大学に入るまでは、小学校4年卒業の段階で選択をせまられ、高等教育を受ける人はギムナジウムに行くことができ、ギムナジウムも能力に応じて学校差があるが、大学だけそれがない。また大学に入るまでの小学校やギムナジウムには落第制度が機能していて、同じ学年で二度留年すると退学させられる。しかし大学にいくと、能力差による選択がないわけだから、矛盾している。
このように大学はすべてレベルが同じという前提で作られているから、大学の個性化は困難であり、あまりにも個性的なカリキュラムを作ると大学基本法が保障している大学間移動ができなくなるというのは構造的矛盾ではないかと思う。また教授の終身役人ステイタスというのは、なかなか変えることはできない。ただ、少しずつ変わっていて、1995年まで正教授だった人は退官した後も同じ給料をもらえるという特典があったが、それは無くなった。ちなみに「教授」という称号は退官した後も「墓場」までもっていくことができる。
<記録:渋谷謙次郎>
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