--MESSAGE13-- (2003/4/17)
東京大学社会科学研究所の上村です。
4月1日から11日まで、イラク戦争や新型肺炎にもめげずに米国ワシントンへ行ってきました。その目的は、㈰IMF世界銀行共同図書館で東アジア諸国の統計資料を収集することと、㈪世界銀行の「社会保護」の専門家にインタヴューすることでした。以下、目的から外れて遊び歩いていたことも露見してしまいますが、出張中の日記をお目にかけます。御笑覧いただければ幸いです。
4月1日 成田からトロント経由でワシントン行。ナショナル空港からタクシーでホテルに到着。運転手氏の話では、政治指導者は忙しいだろうが、市民生活はふだん通りとのこと。むしろ新型肺炎SARSのほうが心配だという。

4月2日 IMF・世界銀行まで歩いてゆく。途中、オルソン書店で、昨年出たナイの『アメリカの力の逆説──なぜ世界唯一の超大国はひとりではやっていけないのか』を買う。IMF財政図書館司書のDeirdre Shanleyさんの案内でIMFビルに入り、財政図書館とIMF世銀共同図書館を見る。それから世銀ビルへ行き、人間開発・東アジア太平洋部門局長のEmmanuel Jimenez氏は多忙のため、そのアシスタントのShams urRehman氏に会う。世銀の融資プロジェクト案は当事国政府が書くのが原則で、世銀のスタッフは助言するにすぎないという。実際には、当事国政府の官僚の能力が高い場合(韓国・タイ)とそうでない場合(インドネシア・パプアニューギニア!)があり、後者については口出しする頻度が多くならざるをえないのだそうだ。世銀の刊行物センターにて、フェローニほか『国際公共財──誘因・測定・資金調達』を買う。

4月3日 Shanleyさんのおかげで、IMF世銀共同図書館に出入御免のバッジを手に入れる。共同図書館にて資料を渉猟。各国別の統計がきちんと揃っている。夕方、財政図書館へ行き、ShanleyさんからIMFの『社会的セイフティネット』『IMFの支援するプログラムにおける社会的論点』をもらう。

4月4日 共同図書館にて統計資料を複写。午後、世銀のKatherine Marshall氏に会う。ASEM(アジア欧州会合)信託基金の責任者だった人で、現在は「価値観と倫理に関する開発対話」部門の局長とウォルフェンソン総裁の顧問をしている人。イラク戦争後の復興にも関わる重要ポストなのでは、と聞いたら笑っていた。世銀がASEM信託基金の運営を引き受けたのは、フランス出身のJean-Michel Severino副総裁(当時)がヨーロッパ流の社会的次元の考え方を世銀に持ち込んだからだという。『ヨーロッパとアジアの新たな社会政策課題』として刊行された研究プロジェクトは、80件のASEM事業のうちの1件(4500万ドルのうちの75万ドル)にすぎないとのことで、事業全体の中間報告書をくれる。夜は、ケネディセンターにてナショナル交響楽団の演奏会を聴く。Osmo Vanskaというフィンランド出身の指揮者による、シベリウスの交響的幻想曲「ポホヨラの娘」、アホの交響曲第9番(1994年初演)、ブラームスの交響曲第3番。指揮者の真うしろで聴く。アホ作品は、新ロマン主義的な響きのあいだにハイドンやベートーヴェンを思わせる楽節が顔をのぞかせるというもので、機知に満ちた音楽学教授の交響曲。ホールも演奏も理想的で、ブラームスもすみずみまで楽しめた。

4月5日 国立アメリカ歴史博物館へ行く。アメリカの歴史の新しさを反映して、それほど面白くない。わずか200年前の星条旗をまるで考古学上の発見のように修復展示しているのには苦笑させられる。19世紀後半にドイツから化学を導入したことを解説した展示は、日本と同じだと思った。また、Julia Childという料理番組の先生を記念した展示があり、彼女は戦後のインスタント生活から台所の団欒への回帰を唱えた功労者であると紹介されていた。アメリカの最新の歴史である「9月11日」の展示もあり、見学者の一様に敬虔そうな様子が印象に残った。それからワシントン記念塔と、タイダル・ベイスンあたりの桜を観た後、ホワイトハウスの前を通って帰る。

4月6日 午前中は読書。午後は、あまり天気がよいので出かける。ウッドレーパーク近くのThai Townというタイ料理店にて昼食。Pud Thaiというビーフンを註文。当地のエスニック料理店の充実ぶりは東京の比ではなく、タイ・ベトナム・マレーシア・インド・中国はもとより、エジプト・ガーナ・エチオピア・レバノン・アフガン料理まである(なぜか韓国料理は見かけない)。これだけ揃っていれば、どこの国の政権を転覆しても親米政権を作るのに困らないだろう。地下鉄でアレグザンドリアという町へ行く。アメリカの鎌倉という話だったが、明治村でももう少し歴史を感じさせると思う。初代大統領ワシントンの教区教会だったクライストチャーチや、ワシントン夫人がお得意だったという薬局を観る。オルソン書店でスペンサーの古本を見つける。『第一原理』『社会学研究』『倫理学原理㈵・㈼』『社会静学』(以上は1896年版)『事実と批評』(1902年刊)が6冊まとめて60ドルとあっては、荷物になっても買わざるをえない。『事実と批評』はスペンサーの最後の本らしく(前書きに「おそらく私の最後の本になる」とある)、なんと、「最後の偉大なヴィクトリアン」であるスペンサーが前日に83歳で亡くなったことを報じる1903年12月9日付ボルティモア・サン紙の切り抜きのおまけつき。今年はスペンサー没後100年ということになる。レジの女の子に「日本だったら1冊100ドルはするよ」と言ったら驚いていた。それからケネディセンターへ行き、Columbia Union Collegeという安息日再臨派の大学の合唱団の演奏会を聴く。John Rutter本人の指揮によるラッターのGloriaやRequiem、それに黒人霊歌の編曲版など。一昨日のNSOに比べると演奏は素人だし曲も素人向きだが、まずまず素直に楽しんだ。卒業したばかりという同合唱団のOGと隣席。「戦後アメリカのイスラエル政策」について卒論を書いたそうだ。ラッターの大ファンとのことで、やっぱりラッターなんて下らないんじゃないか、とは言い出しにくい雰囲気だった。

4月7日 世銀の刊行物センターにて、ブリス『大転換──20世紀における経済思想と制度変化』、サンダーソンほか『アジアの人口』、ADB・世銀共編『アジアの新たな社会政策課題』を買う。午後、世銀のTamar Manuelyan Atinc氏に会う。貧困軽減および経済管理ユニット・東アジア太平洋部門の専門家で、アジア経済危機に際して社会政策融資を担当した人。世銀のアジア社会政策戦略の原則は何かと聞いたところ、「世銀の社会政策戦略」というものはないという答え。Holzmannの「社会的リスク管理」にしても、考えを広げるための枠組みであって、何らかの原則を示したものではないとのこと。世銀としては融資対象国との対話を重視しており、当事国政府が望まない項目に融資することはない、というもっともな説明。それでも、㈰その国の所得水準、㈪政府の行政能力、㈫フォーマル部門の大きさ、の3つの要素は考慮するという。アジアの社会政策を支援するドナーとしては世銀とASEM(世銀は運営のみ)のほかADBとUNDPがあり、世銀は融資のみ、ASEMはグラントのみ、ADBは主に融資で一部グラント、UNDPはグラントのみ、とのこと。世銀が現在関わっているプロジェクトとしては、中国(遼寧省)の年金、タイの労災保険と失業保険、フィリピンの年金と住宅、などがあるという。世銀とADBは競合することもあれば協調することもあり、中国については世銀主導、モンゴルについてはADB主導などの役割分担があるとのこと。IMF世銀共同図書館で統計を渉猟。

4月8日 共同図書館にて統計複写。なかなか捗らない。シンガポールのAsher教授の『ASEAN諸国の歳入制度概観』(1980年刊)を見つけ、全文複写する。この分野における比較研究のパイオニアワークではないか。夜は、ケネディセンターにてワシントン合唱芸術協会の演奏会を聴く。20歳台からおそらく70歳台までの190人の大合唱団で、素人は素人でも一昨日の大学生より年季が入っている。オーケストラはボルティモア交響楽団で、NSOよりは落ちる。Bobby McFerrinというアフロヘアのジャズヴォーカリスト兼クラシック指揮者の指揮。指揮はバーンスタインと小澤征爾に学んだという。そう言えば、指揮ぶりはどことなく齋藤メソッドだ。バーンスタインの「チチェスター詩篇」、バーバーの「アニュス・デイ」、バッハのカンタータ80番など。幕間にバッハのソリストたちがMcferrinの口伴奏(4オクターヴの声域!)でジャズやハバネラやイエスタデイを歌って、大受けだった。しかし、バーンスタイン直伝の「チチェスター詩篇」がいちばん聴きごたえがあった。最前列右端で聴いたので、ハープがよく聴こえて面白かった。アンコールには、バッハのコラールを客席も一緒に歌った。じつにアメリカ的な演奏会だった。

4月9日 世間はバクダッド陥落のニュースでもちきり。当方はそんなことには構わず、ひたすら統計を複写。Asher教授の『マレーシアとシンガポールの社会保障』も全文複写。

4月10日 統計の複写が間に合わないので、8時半に出勤して精励。フィリピン・インドネシア・タイの統計年鑑まで複写して、何とか当初の計画をこなす。タイについては、いらないとは思いつつ、1905年から約百年分の財政統計を複写。夕方、世銀のJohn Blomquist氏に会う。社会保護ユニット・人間開発ネットワークの上級エコノミスト。Rehman氏の紹介。労働経済学専攻で、タイとガイアナの社会保護コンサルティングを一人でこなしているという。ADBのために仕事をしたこともあり、末廣先生とも面識があるとのこと。タイの失業保険導入に関する「技術的」助言は、ASEM信託基金の事業として、オーストラリアのコンサルタントに依頼したという。どの国のコンサルタントに頼むかは偶然によるのだそうで、そうなると途上国の社会政策の発展方向はほとんど運次第のようだ。しかし、助言を受け入れるかどうかは当事国政府の「主体的選択」なのであって、東アジア諸国のように財政の自律性が比較的高く、しかも複数の援助機関が競合している場合は、事実としても当事国政府の選択余地は広いらしい。また、近年の世銀の融資方法ではすべてのプロジェクトを一括して融資するので、融資されるお金と個々のプロジェクトとの結びつきはそれほど明確ではなくなっているそうで、その意味でも融資対象国側の選択余地は広がっているようだ。つまり、東アジア諸国の社会政策に対する世銀の影響と言っても、融資額の多寡で計れるようなものではなく、知識や構想の力のほうが大きいように思われた。Blomquist氏はとても陽気な人で、2時間近く付き合ってくれたうえ、世銀の社会保護融資の内部資料をメールで送ってくれるという。Blomquist氏と同じ部門のエコノミストで、2000年のIIRA(国際労使関係研究会議)で会ったGordon Betcherman氏にも挨拶して退散。時間が余ったので、ホワイトハウス近くのレンウィク美術館でライト(FrankLloyd Wright, 1867-1959。明治村にある旧帝国ホテルの設計者)の展覧会を観る。彼の窓のデザインは、日本の障子から着想を得たという。それからジョージ・ワシントン大学の書店へ行き、キャスルズ/デイヴィドソン『市民権と移民──グローバル化と帰属意識の政治』、ILOの社会経済プログラム局長を務めるスタンディングの『新たな温情主義を超えて──平等としての基礎保障』を買う。エツィオーニの本がたくさんあると思ったら、彼はこの大学の教授なのだそうだ。記念に新著を買おうかとも思ったが、どうせ読まないのでやめる。

4月11日 早朝、ホテルを発つ。ダレス空港まで、ガイアナ出身の運転手氏と話す。英植民地時代のガイアナは平和でのどかな国だったそうで、運転手氏はそこで小学校の校長を務めていたが、1966年の独立後はForbes Burnhamという「カストロみたいな独裁者」が国を貧しくしてしまったという。1968年に米国に逃れてきて会計学の修士号をとったが、市民権を得ていなかったため就職できず、タクシー運転手になったという。かたわらサッカーの審判やスポーツ写真記者としても大いに稼ぎ、一男一女を育てたそうだ。「一つの仕事しかもたないのは、すべての卵を一つの袋に入れるようなものだ」というのが家訓だそうで、デンヴァーで情報技術者をクビになった30歳の長男も、副業の競輪選手の仕事で何とか暮らしているという。機上では、ワシントンポストと日経新聞を読み比べる。ワシントンポストは、イラク戦争についていくつもの論説を載せていて、「ブッシュよくやった」とか「ヨーロッパや国連は戦後復興で大きな顔をするな」というものから、「戦争そのものより戦後統治のほうが大変だ」とか「ブッシュは道徳的批判に答えられるか」というものまで、一紙を読むだけでかなりの世論の幅を実感させる。ところがわが日経は、「引き続き状況を注視していく必要がある」というような官房長官談話式の社説を載せているだけで、多元的な世論を構築するのに少しも役立っていない。まことに、「単一の説を守れば、その説の性質はたとい純精善良なるも、これに由て決して自由の気を生ずべからず」(『文明論之概略』)という福澤諭吉の批判は今でもあてはまる。経由地のトロントは新型肺炎SARSで大騒ぎのようだったが、べつだん何事もなく成田に到着した。

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