セミナーの記録と日程

全所的プロジェクト研究

第12回プロジェクト・セミナー

2000年3月9日 ◆於:社研大会議室

報告:福沢 啓臣
 グローバル化とドイツの大学改革

第12回プロジェクトセミナーでは福沢啓臣氏から報告がなされた。福沢氏は1967年に渡独し、1976年からベルリン自由大学の日本学科で日本語を教える。その間、一時帰国などを除くと、30年余在独。  以下は第14回プロジェクトセミナーの議論の概要である。

【福沢 啓臣】  グローバル化とドイツの大学改革   →【討論】

 簡単にまず、ドイツの大学改革について話す前提として、多少、ドイツの大学についての予備知識を話しておく。ドイツの大学は、まず総合大学(131校、五つの学部以上ある大学)がある。次に、専門単科大学(141大学、日本でいう高専や師範学校のようなものが格上げになったもの)が1960年代に発足して70年代に増え、これからもますます増えていくのではないかと言われている。総合大学に比べると、専門単科大学は実学的な面を重視する。また日本と比べた場合、ドイツには私立大学というものが非常に少なく、特に総合大学で私立大学というのは一つか二つで、多くのドイツ人にとっては未知の分野に属する。私立大学は一応65校となっていますが、この場合、教会関係で設立され、神学校などが多いのではないか。大学生の数は190万人で(日本では250万人)、総人口(ドイツ:8600万人)の比率から言えば、それほど少なくはない。ただしドイツの大学生は卒業に平均6、7年かかる。

 またドイツと日本の政治体制を比べた場合、日本は中央集権国家だがドイツは連邦国家で、連邦政府の権限が及ぶのは外交、国防、原子力の三つの分野で、それ以外は州政府に属する。文教関係も本来はすべて州政府の管轄内にあり、連邦政府は口出ししないというのが出発点だった。ところが1976年に大学基本法が新しく制定された。それまで連邦政府は大学教育に関与しなかったから、大学基本法そのものがなかった。ところが1960年代に学生数が爆発的に増え、学生運動の高まりによって、それまでの大学教育が困難に陥ったことをふまえて、新しい法案を作り大学基本法が誕生した。個人的な体験で言うと、ドイツでは大学間の移動が自由だが、ベルリン自由大学に移った時、ラディカルな学生達が主導権を握っていて、学生達の大幅な権利が州の法律に反映された。例えば、それまでの教授会というものがなくなり、学部評議会という名前に変わった。そこでは教授の票数が4票で、助手や講師などが2票、学生が2票、事務職員が2票もっていた。教授の票がまとまっても、その他の人々がそれに反対すれば流れてしまうので、それは行きすぎだということで、連邦の大学基本法で学術研究に関する表決では学部評議会の教授が過半数の票をもたなければならないという法律規定ができた。以前は、ベルリン自由大学で32歳の助手の人が総長に就任したこともあり、そのことへの反省もあったのではないか。

 州は連邦教育法の枠内でそれぞれの大学を運営できるが、州ごとに色々ばらつきがあって、それをある程度まとめなければいけないということで、文部大臣達が周期的に集まって関与するのが州文部大臣会議であり、学長が集まる大学学長会議というものもある。それ以外に学術(評価)審議会などがある。また大学設立振興法という連邦法では、新しく大学を作るとき、新しい研究所を設立するときに連邦予算の補助を受けることができるというものである。予算の基礎となるものが学術審議会の評価である。

 新しい大学基本法ができたときにドイツの大学は「グループ大学」(グループ合議制大学)であるとされ、大学のすべての議決機関が4つのグループ(教授、中間教職員、学生、その他事務・図書など)の代表者から構成される。このグループ制度に連邦憲法裁判所が合憲の判断をした。またドイツの大学では総長と学長を分けていて、総長はより権限が強く、任期は7年から4年になり、当該大学に属さない者でも総長になることはできる(代議士が大学の総長になったこともある)。学長は任期2年で当該大学の教授でなければならない。事務部門のトップである事務局長は10年という任期で、10年もやっていれば下手すれば若い総長や学長よりも力をもっていることもある。旧教授会の学部評議会では教授の票数が7票で、その他の合計が6票である。一つの学部にはさらに学科群評議会(教授4票、その他3票)がある。また、例えば「日本学」というものに学科運営会というものがあって、それが意見を出して学科群評議会などに上げていくわけだったが、大学基本法ができてから正式には無認可になった。最終的には州文部大臣が決定権限をもっていて大学は提案権をもっているということになる。またドイツの大学には女性担当官というものがあって、総長・学長の直属の機関で独自予算をもっていて、教授から助手まで含めて応募者に女性がいた場合、差別的な扱いを受けていないかどうかチェックをするものである。全学学生自治会は、独自予算をもっているが自治会の選挙などでも投票率は10%くらいで形骸化している。

 正教授大学というのは講座制大学のことで日本も昔はあって、ドイツも今は無くなったが、正教授は昔ほどではないにせよ今でも強い権限を持っていて、教授の身分についてはドイツの大学改革の大きな争点である(終身制、役人制というのをいかに変えていくか)。日本の大学にはないがドイツには招聘交渉、招聘約束というのがあって、正教授のポストが公募されてリストのナンバーワンになった人は大学当局と直接交渉して自分の受け入れ条件、要求を通すことができるというものである。しかし大学側も予算の裏付けがなく、条件をなかなか認めないので悪循環になる恐れがある。おもしろいのは現職の教授が他大学に応募してリストのナンバーワンになった場合、その条件をもとに自分の大学と交渉することもあることである。そうすると予算が目一杯の場合、力の弱い大学がとばっちりを受けることにもなるので、これも問題になっている。

 ドイツの大学の卒業というのは日本の大学のように学士卒業というのは原則としてなく、修士卒業というのが原則である(分野に応じて修士、ディプロマ、国家試験)。博士号は年間、2万4千人取得している。教授になるためには教授資格が原則として要求されているが、それをとらなくてもそれに匹敵する業績があればなることはできる。教授資格をとってもポストがない場合、「私講師」という形で教授の名前を語ることができない。50歳過ぎても教授になれず、一生教授になれない人もたくさんいる。

 大学入学資格というのは13年であり、小学校5年になるときに原則的に将来を決めなければならない。高等教育を受けるのか(日本でいう)商業、工業高校に行くのか、それとも中学卒業で就職するのかという具合である。日本のように中学卒業まで皆同じで、その後将来の選択が分かれていくが、ドイツでは10歳で決まってしまう。場合によっては13年ではなく12年で大学入学を認めることもあり、これからますます増えていくであろう。日本では想像できないが、ドイツでは大学入学資格は一度とってしまうと原則的に一生有効であり、40歳になっても定年退職した後でも大学に入ってくる人は時折みかける。大学入学資格試験というのは3年間の成績と卒業試験からなり、比率は半々である。また日本にない制度として、いわゆるデュアルシステムというがあって、大学に行かないで就職する場合、中学を出た後、2〜3年間職業教育を受けるものであり、週に3日くらい現場で働いて、2日くらい職業学校に通うというものである。この職業教育には450くらいの職種が網羅されている。ドイツには職業教育を受けた後で資格をとってから大学にくる人もたくさんいて、だいたい大学生の2割くらいはそうである。

 男子の場合、徴兵が10ヶ月、さもなければ代替奉仕(病院、老人ホームなど)が12ヶ月あって、徴兵に応じるのは約5割である。連邦育英奨学金は、かつては返還しなくてもよかったが、83年より返還が義務になった。奨学金は成績に関係なく、親の収入が少なければもらえる。月千マルクで一応なんとか生活費がカバーできる程度である。

 大学のカリキュラムは9学期で、4,5年間で卒業できることができる(専門単科大学は8学期)。しかし実際にはその機関で卒業できるのは数パーセントで、卒業率は60%である卒業平均年齢が28歳。平均学業期間は大学が6,8年、専門単科大学が4,6年で、博士号取得する人の平均年齢は文系が36歳、理系が31,4歳。就職活動について大学は全く関与しない。

質問

人事に関して、事務や秘書、事務局長などの人事は大学ごとにやっているのか?

福沢氏

各大学ごとで、学部の名前で公募している。事務局長は公に大学の中で選挙してきめる。

質問

招聘交渉については、実際に払えるかどうかは別にして、いくら払うかということは個々の教授にフリーハンドが与えられているということか?助手や私書などのポストの数も与えられた予算の中で自由に決めてよいのか?

福沢氏

私が知っている範囲では、公募してリストのナンバーワンになった人が、学長と学部長と事務局長とで具体的な交渉に入り、大学の提示する額について候補者がノーと言えば交渉は決裂であり、話がナンバー・ツーの人にいく。ポストの数も、大学側は従来の助手などの人数を提示して決める。

II

III

IV

<記録:渋谷謙次郎>