まえがき

 本報告書は、平成13年度日本貿易振興会アジア経済研究所において開催された「開発途上国の社会保障政策:ラテンアメリカとアジアの比較研究」研究会の成果である。本研究会は通称「新興福祉国家研究会」と呼ばれ、新興工業国における福祉国家の性格と、各国に福祉国家が成立した政治・経済・社会的背景を明らかにすることを目的としている。本研究会は平成14年度も継続され、したがって本報告書の性格は、「新興福祉国家研究会」最終報告書作成のための中間報告である。そのため本報告書の内容は、各国の政治・経済・社会的状況、及び各国の持つ社会保障制度の概要を確認するための資料とした。社会保障制度の範囲は、社会保険と社会扶助を中心とした社会保険以外の分野も含んでいる。その社会保障制度については、制度成立の経過、制度の内容、適用範囲と実際の状況についての概略を記すことにした。
 本研究会発足のきっかけは、エスピン・アンデルセン著の『福祉資本主義三つの世界』(エスピン・アンデルセン訳[2001]原著[1990])発行以来活発化してきた比較福祉国家研究の流れに、我々開発途上国研究者が接したことにある。比較福祉国家研究は、日本においても『比較福祉国家論』(岡沢憲芙・宮本太郎扁[1997])等一連の研究が出現している。また、エスピン・アンデルセン編の『変容する福祉国家』(Esping-Andersen[1996])においては、それまで先進国に限定されてきた比較福祉国家論の視野にラテンアメリア、東アジア、東欧といった欧米福祉国家以外の諸国が分析の対象に含まれるようになった。同時に、それら地域における比較福祉国家研究を視座に入れた福祉国家論が出現するようになっており、本研究会のメンバーもこうした視点を持ち合わせていて、既に何本かの試論を発表している。この点に関し、各章の参考文献リストを参照して頂きたい。
 エスピン・アンデルセンは社会政策が必要に際して労働者にどの程度供与されるのかという脱商品化と、社会政策がどの程度階層化しているのかという二つの指標を用いて、福祉国家を保守主義、自由主義、社会主義(社会民主主義)レジームという三類型に分類した。そして、こうした類型が形成される要因として、階級動員(特に労働者階級)の状況、階級政治的同盟の構造、歴史的遺制の三要因を重視した(エスピン・アンデルセン訳[2001]原著[1990])。
 エスピン・アンデルセンの議論が比較福祉国家論の発展に果たした功績は、計り知れない。しかし、彼の議論は欧米、なかんずくヨーロッパ福祉国家の経験を基盤としており、歴史的遺制が福祉国家形成の要因として重要である点に異存はないものの、政治的状況が大きく異なるラテンアメリカやアジアの新興工業国の福祉国家議論にそれをそのまま適用するのは問題が多いと考える。したがって、彼が指摘したヨーロッパにおける福祉国家を形成させた要因と、ラテンアメリカとアジアにおけるそれが質的に異なっている可能性がある以上、現在の新興工業国の福祉国家が形成された要因、さらには新興工業国における福祉国家の類型が彼の三類型に当てはまるか否かもあらためて検討されなければならない。
また、エスピン・アンデルセンに代表される福祉国家の形成要因として政治的要因を重視する人々は、経済・社会的要因、言い換えれば構造的要因や機能主義的手法に極めて批判的である。我々は、もちろん新興工業国における福祉国家の形成においても政治的要因が重要であることに異を唱えるものではなく、重要な要因であると考え分析の対象に含めることにしている。しかし、ヨーロッパ先進諸国とは異なる経済発展段階および異なる経済発展過程を持ち、ヨーロッパ先進諸国とは異なる経済・社会構造や異なる資本主義をもつ新興工業国における福祉国家の形成において、それらがどのような影響をもっていたのかも議論する必要があると考えている。そのために、本報告書においても各国の政治的状況のみならず、社会・経済的状況にも言及してもらっている。とはいえ、これら全ては来年度の報告書において掘り下げて議論されるべき課題である。
 本報告書で取り上げた諸国・地域は、ラテンアメリカからはメキシコ、ブラジル、アルゼンチン、また東アジアからは韓国、台湾、香港である。これら諸国・地域は域内で工業化が進んだいわゆる新興工業諸国とよばれる諸国・地域であり、一定規模の社会保障制度を有している。また、インドのケーララ州とキューバは、一人あたり国内総生産が低いにもかかわらず、平均余命や乳児死亡率など社会指標が優れているとされる国・地域である。これら2カ国は、福祉国家形成の産業化仮説への反論として用いられる場合がある。そこで、インド・ケララ州とキューバにおける社会保障の状況とその政治・経済・社会的背景はどのようなものであったかを解明する必要があり、本研究会において取り扱うことにした。
 

参考文献
エスピン・アンデルセン[2001](岡沢憲芙・宮本太郎監訳)『福祉資本主義三つの世界』ミネルバ書房(Esping-Andersen, Gosta [1990], The There Worlds of Welfare Capitalism, Cambridge: Polity Press.)
岡沢憲芙・宮本太郎編[1997]『比較福祉国家論』法律文化社。
Esping-Andersen, Gosta [1996],Welfare States in Transition, London : SAGE Publications.

本報告書の執筆者は以下のとおりである。(執筆順)

金早雪   信州大学経済学部
林成蔚   北海道大学大学院法学研究科
澤田ゆかり 東京外国語大学外国語学部
村井友子  日本貿易振興会アジア経済研究所図書館
子安昭子  神田外語大学国際言語文化学科
宇佐見耕一 日本貿易振興会アジア経済研究所地域研究第2部
佐藤宏   秀明大学国際協力学部
山岡加奈子 日本貿易振興会アジア経済研究所地域研究第2部

 なお、この研究会には以下の専門家をお招きし、多くの学識ならびにアイディアを提供していただいた。ここに改めて感謝を申し上げたい。

グラディス・エルナンデス(キューバ世界経済研究所)、篠田武司(立命館大学産業社会学部)、宮本太郎(立命館大学政策科学部)、上村泰裕(東京大学社会科学研究所)

                                                    2002年3月  編者


目次



まえがき
第1章 韓国             金早雪
  はじめに
第1節 韓国社会保障政策の歴史的概観と現行制度
第2節 権利としての社会保障:「社会保障基本法」
第3節 公的扶助:「国民基礎生活基本法」
第4節 保険制度:国民年金・医療保険

第2章 台湾             林成蔚
  はじめに
第1節 社会保障の定義と規模
第2節 社会保険以外の社会保障制度
第3節 社会保険の展開と政治的背景
第4節 社会経済的要因
  まとめ

第3章 香港             沢田ゆかり
  はじめに
第1節 社会保障制度の概要
第2節 植民地時代の社会保障
第3節 社会保障制度の改革
  おわりに

第4章 メキシコ           村井友子
  はじめに
第1節 政治・経済・社会的背景
第2節 社会保障制度
おわりに

第5章 ブラジル           子安昭子
  はじめに
第1節 政治・経済・社会的背景−変化するブラジル社会 
第2節 社会保険制度
第3節 保健医療制度
第4節 社会扶助と貧困対策
第5節 社会支出
おわりに

第6章 アルゼンチン         宇佐見耕一
  はじめに
第1節 政治・経済・社会的背景
第2節 社会保険制度
第3節 社会扶助制度
第4節 社会支出
おわりに

第7節 インド            佐藤宏
  はじめに−独立以降の概観−
第1節 インドにおける社会保障の特色
第2節 制度的社会保険の対象領域
第3節 非組織部門への制度的拡大
第4節 社会保障制度適用の階層格差−医療サービスを中心に
おわりに

第8章 キューバ           山岡加奈子
  はじめに
第1節 政治・経済・社会的背景
第2節 社会保険制度
おわりに