セミナーの記録と日程

全所的プロジェクト研究

第10回プロジェクト・セミナー

2000年1月24日 ◆於:社研大会議室◆司会:橘川 武郎

報告:大沢 真理
 社会政策の比較ジェンダー分析

第10回プロジェクトセミナーでは大沢氏から報告がなされた。

【大沢 真理】  社会政策の比較ジェンダー分析

討論要旨

司会

 最初にこのセミナーでお招きした、大阪産業大学経済学部教授の埋橋孝文氏にコメントをお願いしたい。

埋橋

 デボラ・ミッチェル等の「成果重視アプローチ」について。
 日本では従来福祉の制度の歴史、経緯などの研究が重視されてきたが、ミッチェルでは、その時々で多数の国を横断的に比較する、という方法が新鮮だった。しかし横断的な比較はいつも可能というわけでなく、たとえばLISデータが作成された80年、85年など限られた時期しかできない、あるいは何十カ国という数が参加する国際的な共同研究プロジェクトなどではじめて比較ができる、などのことは押さえて置かねばならない。日本でもこれらの共同研究に参加し、成果を生かすチャンスを得ていくことは大切である。
 ミッチェルは生産手段、産出(output)、成果(outcome) の三つの関係を見いだそうとはしているが、つめがはっきりしていない。どうすれば成果を上げることができるか、生産手段のこの点を変えれば上がる、などのことが明確でない。
 これまでの、制度に注目したものと生産手段との関係はまだ注目していく必要がある。
 ジェンダー視点を入れると日本、スイスが、ギリシャ、スペインと並んで彼女の図の左下に来る、という分類について。
 公的扶助の国際比較ではジェンダー軸を入れなくても日本、スイス、ギリシャ、スペイン、イタリアが近い場所に位置する。GDPの水準などがかなり違うにも関わらず、日本、スイスは社会政策関係でいう限り南欧とかなりタイプが似ているのである。

大沢

 私は今回社研のプロジェクトの中で、南欧と括るよりは、韓国、台湾などと日本を比較し、東アジアのタイプを析出していきたいと考えている。
 今埋橋氏の言われた公的扶助で比較した場合のタイプ分けについて。イギリスのヨーク大学で埋橋氏も加わって行われた、80年代のOECD22カ国の調査結果がもとになっているが、私なりにジェンダーとの関係をいうと次のようになる。日本、スイス、南欧は、まず家族がニーズを充足し、家族の能力がつきたときだけ国家が出てくる、という補足性(subsidiarity)原則の強い国々であり、家族の役割とは具体的には女性(妻・母)の役割である。

質問

 大沢氏のエスピン−アナーセンの議論のとらえ方と私のそれとは違う。エスピン−アナーセンの議論は国家の類型論ではなく、基本的な3つの考え方であって、それが一番よく反映しているのが年金である、というものである。医療保障制度その他を入れてくると各国で非常に違うので比較はできない。そういうことを考えると、福祉国家の比較は本当にできるのだろうか、という疑問がある。
 政治学で今問題になっているのは、福祉は後退しているか、福祉はどのように変化しているか、という問題である。しかしいろいろいわれているにもかかわらず肝心の所はまだ分析されていない。福祉制度のプログラムの比較なら可能だが、福祉国家の比較というのは容易ではない。重要なことは何のための比較か、ということである。またこのプロジェクトの中で大沢氏のチームがどのような位置を占め、どういう貢献が可能か、を明らかにしてほしい。
 また、類型論だと静態的な分析になる可能性があるので、大沢氏の関心の中に変化という問題はどのように組み込まれるかを聞きたい。

質問

 青木氏らの比較制度分析は本当に類型論として成功しているのかどうか。確かに収斂イメージを廃し、複数の経済システムだといっているが、結論は民間部門が補完する、となっていて、方向としては政府から市場へという流れの議論の一つではないか。これを歴史に応用したのが野口悠紀雄氏などの1940年代体制論、規制緩和の最大の論拠になった議論である。類型論の形をとってはいるが結局は単線的な、類型論を否定する議論として作用していったのではないか。類型論的な議論を、市場と国家という問題に関して立てることができるのかどうか疑問である。

大沢

 私自身は比較をするつもりである。類型論は確かに重要な問題についてモデル化できない弱点があるが、それを立てておくことによって、10年間とか20年間とかの変化を特徴づけできる。例えばデボラ・ミッチェルは、最初のモデルでは80年時点のLISデータを使い、次のものは85年のLISデータを使って、どの国がどの辺の位置からどういう方向にどのくらい動いたか、という議論をしている。
 たとえば日本でサッチャリズムに関する研究はいくつもあったが、福祉国家を否定するという看板を掲げて政権を執ったサッチャーが、どの程度目的達成に成功したのかしないのか、という評価はきちんとされていない。モデルを持たないために評価ができない。
 ミッチェルはエスピン−アンデルセンの三類型を修正して四類型にし、イギリスはサッチャーのもとで自由主義的な福祉国家へ一段と近づいたといっていて、わかりやすい。何十カ国を横に比較して何がわかるのか、という意見もわからないではないが、日本の従来の研究史を考えると、ある程度のパターンを捕まえ、そこから深めて立体的な研究をする入り口として比較や類型論は必要である。共同研究で比較研究を分担していくとき、時系列的比較でも横の比較でも、ある共通の評価の基準のようなものは必要である。
 奥野氏は、官僚制多元主義国家論に基づいて国家システムの改革の提言なども書いていて、それは規制緩和論の論拠になる、という方向とは少し違った性格を持っていると思う。

質問

 類型論は何のためか、というのはいつも念頭に置かねばならないことだが、ある時点で構造を明確にしておくこと、比較をすることなしには、それぞれの福祉国家がどういうところに立っているのかがわからない。福祉国家の危機といわれて20年以上経っており、新しい段階に入っていると思われるのに、ただ危機だと言われ続けてどういう位置にあるのか明らかでない。類型や構造を明らかにするのは一時点だけでなく、何年かおいて定点観測的に時々やるべきで、それによって変化も明らかになる。類型論、動態論は両方必要である。
 また、国家をいきなり比較するのでなく、制度、集団、問題などの比較を積み重ねて国の比較ができる。

質問

 大沢氏に注文したいことは、このプロジェクトの関心から言って、80年代から90年代の福祉国家の変化を検討してほしい、ということである。

大沢

 日本の社会保障制度で言うと、この10年は社会保障制度改革の議論がずっとなされながら実際の改革は先送りされ続けてきたので、数値でみると大きな変化はない。しかし私が比較をやる究極の目的は、今の日本がどういう位置にあるのか、であり、それを時系列的にも横の比較でも明らかにしたい。

質問

 別の例だが、国民一人当たりの民事訴訟の件数で比べると日本が似ているのはヨーロッパではスペインの高度成長期であり、スイスもかなり近い。セイフティネットを前に張るか後ろに張るかという分け方だが、もっと広いディメンジョンで社会の構造があって、いろいろ相関しているのかもしれない。女性のステイタスと社会の紛争やそれに関する制度の構造などは、分析してみればあるいは相関しているかもしれないし、議論していく中でそういうものが見つかるかもしれない。
 公式の紛争解決のルートに上ってこないものが多いのは、それ以前に共同体的な紛争の調整が存在しているということでもある。共同的なものについての文化的な規範とか限りなく公的な制度に近いものまでがどのようになっているかという、広く社会の構造の問題になってくる。
 関連して、最近日程に上っている戦後2回目の司法制度改革において、審議会のキーワードは前にある規制を後ろに変える、ということである。これはアメリカモデルが念頭に置かれている。前の規制が厳しく後ろが何もないというのは大学もそうである。
 こういったことも背景の一つとして議論できるのではないか。

大沢

 私の福祉国家比較の目的は非常に精緻なモデルを作ることではなく、最低限共有できる、そのものとで共同作業が可能なものは何か、ということである。

質問

 金子氏のセイフティネットの議論に関して。ポイントをセイフティネットに合わせることで本体がわかるのかどうか疑問である。労働力商品化の無理をどうなくしていくのか、というとき、セイフティネットではなく労使関係などのところでどういうことが行われているのか、本体自身を分析すべきではないか。 脱商品化で労働力商品化の無理を解消できるのかどうか。   

質問

 入り口で張るか出口で張るかのほかに金子氏のもう一つの議論は、たとえばアジアにおいて、コミュニティレベルにおろして張るか、リージョンレベルで、つまりアセアン等アジア地域として世界に対して張っていくか、という議論がある。金子氏がもう一つ例に挙げているのは、金融に関してどうしても出てくる矛盾を国際的な調整で対応するかローカルレベルで対応するかという問題で、彼の発想はあくまで事後的な処理である。工業化路線、成長路線はそのまま続け、出てくる綻びや無理はあとでセイフティネットを張っておけばよい、という考え方がまだ残っているようだ。
 大きく言えば、市場の不完全性と政策の失敗をどこで補完し調整するかという発想を続ける限り、本体については、いかにうまく経済発展させるか、いかに効率的に経済成長を進めるか、という枠組みを脱することはできない。今日の大沢氏の議論を聞くと、ジェンダーを考えに入れると事後的処理であるような福祉政策論はもはや成り立たない、枠組みそのものを変えることが必要だ、というように理解できるので、金子氏の議論との関係はどうなっているのか。
 現在事後的保障としての社会政策論と、新しい社会を作り出すパラダイム論とが混乱している状況がある。セイフティネット論は両方に期待がかかっていて、きちんと分けて考えていないところが危険だ。

大沢

 私は社会政策は綻びを事後的に手当するものだとは考えていない。社会政策システムを変えることによって新しい社会を作ることができる、と考えている。
 橘川氏の質問について。金子氏はたとえば熟練の問題については、労働者の団結、経営者との交渉、他の労働者集団との位置関係等々によって、熟練とは制度的に作り出しているものである、という理解である。熟練が制度化されていること自体セイフティネットの一環、という考え方である。つまり本体でどういう行動の余地があるかもセイフティネットに含まれている。

質問

 金子氏の『現代日本社会 5』の論文は、フリンジベネフィットを考えることで本体がわかる、ということだったが、納得できなかった。労働力商品化の無理をどう扱うかは、周辺だけを攻めても明らかにならないのではないか。

大沢

 脱商品化は労働力商品化の揚棄—社会主義への道—ではなく、第三の道である。

質問

 セイフティネット論は法律学の中でも盛んである。労働法学はもともとプロレイバーとプロキャピタルに分かれていたが、今はプロレイバーの労働法学は影が薄い。労働組合がしっかり機能していなくてはプロレイバーの労働法はワークしないからである。それで雇用保障の方に移行し、それとセイフティネットが結びついて議論されている。
 金子氏の議論は、土地や労働力や貨幣についてのサブシステムがないと資本主義そのものが動かない、そこを市場原理だけで切ってしまったら資本主義も成り立たない、ということを言っているだけである。周辺を議論してそこから何か新しい社会を創り出せる、といっているわけではない、と私は理解している。

大沢

 金子氏や大沢も書いている『福祉政府の提言』では、包括的な社会保障改革を提言しているが、これを実現すればほとんど違う社会になるし、また、違う社会にならなければこういうものは実現しにくい、ということは言える。

質問

 それはキャピタリズムがワークしていくには最低これは必要だ、というところを超えた提言であり、それでないと世の中変わらない。そこから先はセイフティネット論ではもはやなくて、新しい社会を構想しているのではないか。

大沢

 資本主義のもとでも真に合理的に設計するとこうなる、というところにぎりぎりとどまって書いている。

質問

 政治学から言うと、エスピン−アナーセンの類型論のように制度や理念という道筋だけでなく、福祉のアウトプットに注目したところがミッチェルのメリットであるだろう。しかし青木氏らのは福祉国家モデルではなく国家と市場モデルであり、はっきり目的があって分類されているものである。金子氏のも福祉国家研究というのとも違うようだ。

大沢

 青木氏は福祉国家モデルとは全く言っていないが、金子氏は福祉国家の類型ということは言っている。

質問

 あまりヨーロッパが出てこないので、アメリカと日本の比較での、反グローバリゼーション、反市場主義の議論であるような印象を持っていた。
 大沢氏の、何かを言うためにはまず類型化が必要、というのもそのとおりだが、セイフティネットでなく本体を論じているものの整理の場合でも、大沢氏は最後はジェンダーを持ってきている。そこへ行き着くまでの各研究史の整理がそれぞれ非常に違っている。どこを中心的な対象としてここ20年ほどの日本を分析しようとしているのか、を明確にしてほしい。

大沢

 私は80年代以降の日本の福祉国家を中心的な対象にしようと考えている。従来の福祉国家研究は事実上年金・医療などに比重のある社会保障の議論であり、サービス給付や教育・住宅政策等については手薄であった。教育や住宅、税制などもきちんと入れた80年代以降の日本福祉国家の位置を確定したい。そのためにも比較の基準を持つ必要がある。また、ジェンダーはジャンルでなく切り口—分析の道具である。日本の特徴を明らかにするためにはジェンダーは非常に有効な切り口である。

質問

 教育や住宅も加味したうえで日本の社会保障の諸制度をジェンダーという観点から検討する、ということか。

大沢

 比較の基準は一つでなくいろいろあって、これまでも所得や階層等々複数軸で比較がなされてきたが、その中にジェンダーという座標軸を加えて共同作業を組んでいく、ということである。

質問

 エスピン−アナーセンは最初にそういうことを言っているのではないか。

大沢

 もともとジェンダーを入れることが必要だと言っているのだが、操作化していくときには落としてしまっている。

質問

 三輪氏など日本の産業政策が専門の人たちの政策評価について言うと、インプットの段階の分析があってアウトプットに至る間に、いかに効率的に政策を行うかという政策手段の議論では中間組織論などを発展させたが、その結果日本は戦前・戦後を通じて産業政策は全くの失敗だった、という結論をいきなり出している。政策評価について細かい分析や方法の提示がない。
 福祉政策なら福祉政策の成果の評価と言うとき、比較可能な評価はどこで測るのかは大きな問題である。

大沢

 成果について、短期的な成果をoutcome、長期に持続するものを impactと普通使い分けているようだが、私は端的に、成果とは政策の中に目標として掲げられたものの達成度、と考えている。ミッチェルのモデルもそうで、所得移転政策についての評価として、貧困の減少と不平等の緩和(ジニ係数の減少度)がどの程度達成されたかで測っている。このような評価を可能にするためには、政策を起案するときは必ずどういう状態を達成しようとしているかを明示的に書いておくべきである。日本の行政では予算を獲得したらそれだけで業績とし、そこで終わり、ということが多い。これからはアウトプットや成果まで評価する仕組みが必要である。

質問

 たとえば三輪氏は、中小企業の前近代性の改革と生産性の向上を目的とした中小企業近代化促進法のもとでパフォーマンスは確かに良くなったが、それが通産省の政策の結果ではなく市場メカニズムでそうなった、政策の貢献度はゼロである、としている。
 大沢氏の政策評価は、たとえば国連が貧困の撲滅を目指してずっと指標をとってきたが、そこにジェンダー視点を入れてoutcomeやimpactまでを評価するとして、どういう具体的な新しい戦略があるか。世銀は国連の社会指標を取り込み総合的なジニ係数を毎年発表している。そうでないoutcomeの評価の仕方というのは具体的にどのようなものか。

大沢

 それぞれのプロジェクトやプログラムでジェンダーが目的の中に入っているものもあれば手段にはいっているものもある。大きな政策プログラムの場合は下位の副次的な政策目的が達成されているか、を見る。また、表にはジェンダーが含まれているようには見えなくても、深いところで埋め込まれている、年金や税制などの制度もある。ジェンダーが埋め込まれていることによって掲げた目標の達成にどれだけ有効かつ効率的か、という問いを立てることができる。

質問

 エスピン−アナーセンが政治学で評価されているのは、彼の類型の中には政治動員の要因があるからである。自由主義的なタイプでは市場で自己実現できる人々を動員するとか、国が安定するためにあえて社会政策に支出して国民を取り組んでいくタイプ等々、である。エスピン−アナーセンの枠組みだと、なぜある国がこういう制度を作ったか、なぜあるプログラムが変えられ、あるものが変えられないか、という問題を政治的な面からとらえるのに有効である。ジェンダーを組み込む場合、どういう形で政治的に取り込まれているのか、ある種の動員があったのか、ある種のオーバースタンダードがあったのか、そういう側面も重要である。

大沢

 アラン・シーロフがエスピン−アンデルセンの議論を修正したときに「女性の動員が遅れた国」という特徴付けでタイプ分けしたのは、そういう議論の系譜を引いている。Wilensky等比較社会政策の第一世代、総支出アプローチの人々が言ったのは、政権が社会民主主義的か自由主義的か、労働者政党が政権を握ったことがあるか否か、は、福祉国家の大きさとは関係がない、ということであった。それに対しイデオロギーや政治動員は大きな要因だ、といったのが類型論を立てた人々であった。

質問

 プログラムの創設、プログラムの変更に関して、ジェンダーが埋め込まれるにしろ付け加わるにしろ、説明の要因としてどのくらい動員が有効なのかという視点があったら面白いのではないか。

大沢

 ある制度改革が行われたり挫折したりしたときにどのようなジェンダーポリティックスが働いたのか、ということについてきちんと分析したものはまだない。
 日本では、雇用機会均等法がなぜあのようなものになり、改正均等法がなぜ成立したかについて、政治学者の御巫由美子氏が書いているが、その種の仕事はまだ少ない。

質問

 報告者は共有すべき視点として比較ジェンダー分析を提案しているわけだが、従来の研究史とのつながりからいうと、従来は社会政策の場合家族という形で捉えられていた。家族が制度の中でどう捉えられているか、家族をどう組み込むか等々であり、それが基準になって家族を形成しない個人の位置も考えられてきた。家族と言ってしまっては十分に捉えられない部分をジェンダーとして捉えるべきだという場合、具体的にはどうなるか。

大沢

 貧困研究も社会福祉の研究も、世帯単位・家計単位でなされ、家族の中はブラックボックスであった。暗黙のうちに前提とされていたことは、世帯主が稼ぎそれを成員が平等に分け合う、ステイタスも世帯主の持つステイタスがそのまま成員のものになる、というものであった。それに対して、たとえば貧困でない家庭の中の貧困者—老人や女性など—が生み出されている、個人単位で見なくては捉えられない、という議論が起こってきた。政策立案者、実施者は暗黙のうちに家族単位で発想している。しかしたとえば現物給付、介護といった問題になってくるとますます問題が大きいことが明らかになってきた。家族が前提にされてきた福祉政策で、成員個々人にとってのwelbeingの改善の達成度がどのようであったかを評価していかなくてはならない。ここまで見なくては福祉国家のあり方を明らかにすることはできない。

<文責:土田とも子>